『とある老人と三人の貴銃士』
護衛任務を終え、宿に戻る前に一杯飲んでいかないかと入ったのは、街でたまたま見つけた小さなバーだった。
狭い卓に各々好みの酒と肴《さかな》を並べ、仲間のことやマスターのこと、滅多に漏らさない苦労話をしながら労いの言葉をかけ合ったのが三時間前のこと。
それから時間が経過し、そろそろ四時間が経とうとしているにもかかわらず、三人は変わらず同じ場所に座っていた。
いや、座らざるを得ない状況に置かれていた。
「その時だ! ビーンの大馬鹿が何もないところでこけおって、敵の銃口が一斉に奴に向けられた。他の連中はこいつはもう駄目だと奴を見捨てようとしたが、儂は違った。すぐに銃を構えて、敵兵どもを次々撃ち殺してやったわ!」
自慢気に話し終えると、老人はビールを一気に飲み干し、口の周りにたくわえられた白い髭についた泡を袖で拭った。
「それはそれは。素晴らしい腕をお持ちで」
レオポルトは穏やかな笑みを浮かべつつ、老人の話に相槌を打った。
「その話、さっきも聞いたような気がするが……」
底に僅かに酒が残る程度のほぼ氷だけとなったグラスを手に、キンベエが呟く。
「爺さん、その話これで三回目だぜ?」
苦笑し、タバティエールはここに来てから六本目になる煙草に火をつけた。
「誰が爺さんだ小童《こわっぱ》! 儂はトーマス・フィッシャーだ。天才狙撃手トーマス様と呼べ!」
「へいへい」
適当に返事をしながら、雨漏りの跡が残る天井に向かって煙を吐く。
老人——トーマス・フィッシャーが三人の前に現れたのは二時間ほど前のことだった。卓から酒と肴がなくなり、そろそろ宿に行こうかと席を立とうとした時、彼が入店したのである。
既に別の店で酒を飲んでいたのか、彼は既に白色の髭がより一層際立つほどの赤ら顔だった。瞼も下がっており、完全にできあがっているのが見てとれる。
ドアベルに反応し、従業員と一部の客が彼に目を向けた。だが拙いものでも見たかのようにすぐに目を逸らした。彼を歓迎する雰囲気はまるで感じられなかった。
彼はそれを察したのか、舌打ちをすると存在を知らしめるように大きな足音を立てながら空席を探し始めた。
テーブル席は既に満席だったが、カウンターに数席空きがあった。トーマスはそこに座ろうと、足の長い椅子に手を伸ばした。けれどグラスを磨く店主がこちらには来るなと言わんばかりに睨みつけたため、彼は背もたれから手を離した。
タバティエールはその様子を特に理由もなく眺めていた。たまたま、偶然、彼の姿が見える位置に座っていたため、目に入る光景を見ていたに過ぎない。
しかし、それが拙かった。
彼がカウンター席を諦めて踵を返そうとした瞬間、目が合ってしまったのである。
タバティエールはすぐに目を逸らしたが、もう遅かった。
これ幸いと、彼は帰り支度を済ましている三人のもとに近付いてきた。そして空の椅子を引き寄せてどっしりと座ると
『奢ってやる。儂に付き合え』
と、三人に命じたのだった。
三人は彼の気に触れないよう丁重に誘いを断った。面倒な人物だということは誰の目にも明らかだったからだ。ただでさえ普段から手のかかる仲間やマスターに振り回されて大変だというのに、彼らがいない場所でも同じような状況に置かれては堪ったものではない。
もう帰るからと、三人は席を立った。
その直後、周囲の視線が一斉に三人に集まった。帰るな。そこでトーマスの相手をしろ。従業員と客が、揃いも揃って目でそう訴えていたのだ。
ウェイターの女性が三人の卓に近付く。空いたグラスと皿を素早く回収したかと思うと、すぐに頼んでもいない新しい酒と料理を卓に置き、さっさと立ち去った。
周囲からの圧力に負け、三人は大人しく椅子に腰を下ろした。もはやそうするしかなかった。ここで無理にでも出ようものなら、全員に足腰を掴まれて引きずり戻されるような気がしてならなかったのである。
三人は仕方なくトーマスの相手をすることにした。と言っても、ほぼトーマスが一方的に話をするだけで、こちらは相槌を打つくらいしかしていなかったが。
彼と酒の席を共にしてから二時間、三人は延々彼の自慢話を聞かされていた。先の大戦では狙撃手として活躍しただの、多くの美女に好かれて大変だっただの、因縁をつけてきた荒くれ者たちと喧嘩をして返り討ちにしただの、孫娘が可愛いだの、嘘か本当かわからない話を何度も繰り返した。
そんな状態が続いていたせいで、三人は酒で疲れを癒やしていたはずなのにすっかり疲弊していた。タバティエールとキンベエは彼の話を半分以上適当に聞き流し、レオポルトは無理矢理作った笑顔で疲労を隠しながら、律儀に相槌を打って自慢話に付き合った。
「まったく。戦争を知らん若造はこれだからつまらん」
いや、戦争真っ只中の時代に生まれたし、今も戦争をやっているのだが。と思ったが誰も口にはしなかった。
トーマスはウェイターを呼び、新しいビールを用意させた。三人も注文を聞かれるが必要ないと断った。
「ふんっ、まあいい。そんなに儂の話がつまらんのなら、一つ面白い話を教えてやろう」
「面白い話、ですか」
「ああ、そうだ。知っとるか? この街にはヴァンパイアがいる」
「はあ? ヴァンパイアだって?」
先まで戦争の話をしていた彼の口から妙な言葉が出てきたことに驚き、タバティエールはむせ返った。
新しいビールが運ばれ、トーマスは奪うように受け取った。不快そうなウェイターを無視してそれを半分ほど飲むと、彼は話を続けた。
二年ほど前から街では頻繁に若い女性が行方不明になる事件が起きるようになった。最初は誘拐事件として調査が行われていたが有力な手がかりは一切出てこなかった。家出の可能性もあったが、短い期間に何人も家を出るのは不自然であるし、行方不明になっている女性たちは品行方正な者ばかりなので、その線は限りなく薄い。
誘拐されたのは間違いない。だがいつ、誰が、どのように女性を攫《さら》ったのかがわからない。煙のように何も残さず女性だけが消え去ってしまったのだ。
それから調査が進展しないまま月日が流れ、いつしか街ではヴァンパイアの仕業でないかという噂が広まり始めた。突然女性が忽然と姿を消す。それはまさにこの世のものではない存在の仕業としか言い様がなかったのである。
「ヴァンパイアを実際に見た方は?」
「そんな奴はおらん」
「見てもいないのにヴァンパイアの仕業だって騒いでるってことか?」
「姿が見えんから騒いどるんだろ。簡単に見つけられるような奴ならとっくに捕まってるわい」
「爺さんはその噂を信じてるのか?」
タバティエールが尋ねると、トーマスは首を振って否定した。
「六十年以上生きとるじじいがそんな戯れ言を信じると思うか? 馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように彼は言った。
「街の連中は恐れとるんだ。自分たちの力では到底及ばない存在にな」
トーマスは残りのビールを一滴も残さず飲み干すと、すぐに追加のビールを持って来いとウェイターに叫んだ。ウェイターは可愛らしい顔を酷く歪めつつ、店主の背後に設置されているビールディスペンサーを操作した。
「大丈夫かトーマス殿。ちと飲み過ぎじゃないか?」
「何を言っとる若造。この程度まだまだ——」
と、トーマスがまだいくらでも酒が飲めると豪語している最中、店のドアベルが騒がしく響き渡った。
三人は驚き、同時に入口の方に目を向けた。
勢いよくドアを開け店に入ってきたのは、栗色の長い髪を持つ女性だった。大きいな瞳と幼さを残す顔から推測するに、恐らくまだ年齢は若いだろう。マスターと同じくらいだろうか。
彼女は二、三度店内を見渡すと、何かを見つけたようにパッとこちらに視線を向けた。そして一瞬眉をひそめ、小走りで卓に近付いた。
「お爺ちゃん! やっと見つけた!」
少女が強くトーマスの肩を掴んだ。
「ああ? なんだキャロル。こんなところで何をやっとるんだ?」
「それはこっちの台詞! こんな時間までまた飲み歩いて」
「この歳になるとな、酒くらいしか楽しみがないんだ。好きに飲ませてくれんか」
トーマスは運ばれてきたグラスに手を伸ばした。が、彼が触れるより先に少女がグラスを奪い、必要ないとウェイターに丁寧に返した。
「ほら立って、帰るよお爺ちゃん」
「まだ飲み足りん」
「だーめ! もう若くないんだからいい加減控えて!」
少女が強く言うと、トーマスは渋々立ち上がった。一歩足を踏み出した途端大きく身体がよろけるが、すかさず少女が腰に腕を回して彼を支えた。彼女の支えがないとまっすぐ立てないほど、彼は飲み潰れていた。
「お爺ちゃんがご迷惑をおかけしました。私たちはこれで失礼します。ほら、おじいちゃん。ちゃんと歩いて」
彼女に手を引かれ、トーマスは席を離れた。彼は少女の登場により先程までの威勢がすっかり失われ、借りてきた猫のように大人しくなっていた。店主に悪態をつくようなこともなく、静かに支払いを済ませて静かに店を出た。
「なんだったんだ、一体」
トーマスからやっと解放され、キンベエは大きく息を吐いて背もたれに身を預けた。
「嵐のようでしたな」
ずっと彼の機嫌を損ねないよう気を配っていたレオポルトの表情が、糸を切ったように緩む。
「じゃあ、俺らも帰りますか」
煙草を灰皿に押し付け、タバティエールは立ち上がった。
ふと、トーマスが座っていた椅子に目を落とすと、そこに何かが残されているのに気が付いた。
「ん? トーマス殿の忘れ物か?」
椅子に置き去りにされていたのは二つ折りになっているメモ紙だった。開いてみると、そこには街の番地らしきものがいくつも綴《つづ》られていた。
「よくわからんが、届けた方がよさそうだな」
「俺が一走りして届けてきますよ。お二人はここで待っててください」
「すまないね。頼んだよタバティエールくん」
三人の中では事実上最年少であるため〈走って追いかける〉ことについてはタバティエールは適任であった。メモ紙を預かり、トーマスを追って店を出る。
あれだけ酔っているなら遠くへは行っていないだろう。店前の通りを見渡し、トーマスと少女を捜す。
しかし心許ない街灯が立ち並ぶ道のどこにも二人の姿はなかった。酔人の歩く速さなど大したことないだろうと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
右に行ったのか。左に行ったのか。真っ直ぐ行ったのか。角を曲がったのか。そんなことわかるはずがなかった。
わからなかったが、とりあえず近場だけでも捜そうとタバティエールは暗がりの道を走った。
光があるといっても僅かなもの。街灯の真下にでもいなければ物体など殆ど視認できなかった。灯から少しでも離れてしまうとそこはもう闇の中。ヴァンパイアが現れる、と言われるのも頷ける。
この暗さはヴァンパイアに限らず悪事を働くにはにはうってつけだ。光の当たらない小道に潜んで通りがかりの女性を攫うなど容易いだろう。加えて、ヴァンパイアの噂のせいか夜道を歩く者などあまりおらず、そうなると必然的に誘拐現場を目撃する可能性は減ってしまう。連日の女性誘拐事件はつまるところそういうことなのかもしれない。
「参ったな……」
店の周辺を捜してみたがトーマスの姿は見当たらなかった。
もっと遠くまで捜すことも考えたが、こんな夜道ではいくら捜しても見つかる気がせず、やめた。
長時間キンベエとレオポルトを待たせるのも申し訳ないので、タバティエールは仕方なく戻ることにした。
バーに戻ると、先と同じ席で雑談をしていた二人が振り返り、戻りを待っていたと言うように席を立った。
「お帰りタバティエールくん。ミスタ・トーマスは?」
「すみません、思っていたより足が速かったみたいで」
タバティエールは苦笑し、預かったメモを見せた。
「仕方ないのお。どうやらここにはよく来るようだし、店主に預けるか」
それが一番だろうと、三人はカウンターの店主に事情を話してメモ紙を預けようとした。
だが、店主はそれを断固拒否すると冷たく言い放った。理由を尋ねると、トーマスには関わりたくないからと、更に冷ややかな答えが返ってきた。
他に預けられる者はいないかと客を見るが、先とは打って変わって誰一人こちらを見ようとはしなかった。店主と同じく、誰もが関わりたくないと思っているのだろう。
そんな彼らの反応を厳し過ぎないかと物申す気は三人にはなかった。トーマスに長時間付き合わされたこともあり、その反応は当然だろうなと当たり前のように思ってしまったからだ。もし自分たちが同じ立場だったらそう言ってしまうだろう、と。
「仕方ありませんな。これは明日、私たちで返しに行くとしましょう」
見なかったことにしておけばよかった物を拾ってしまった責任は自分たちにある。そう結論づけ、直接トーマスに届けることにした。
「返すと言っても家を知らんぞ。どうやって探す?」
キンベエが言うと、ああそれならと、店主がポケットにしまっていたメモ帳に何かをスラスラと書き始めた。そして一枚破り、キンベエに手渡した。
メモ紙には街の番地と、目的地周辺の地図が書かれていた。どうやらトーマスの家の場所を書いてくれたらしい。これくらいの気遣いを彼にもしてくれれば冷たいという印象を抱かずに済んだのだが、残念である。
居心地も悪いことだしさっさと出ようと目配せをし、三人は店主に支払いの額を尋ねた。
必要ない。店主が答えた。先程、自分の飲み代と一緒にトーマスが払っていったらしい。酔っていても約束は守るようだ。
店主に礼を言い、三人は店をあとにした。
長く人の多いところにいたせいか、夜風がいつもより冷たく感じられた。人の気配がない道を歩いていることも、そう感じさせる要因なのかもしれない。
巡回している世界帝軍兵士に見つかるのも面倒なので、足早に宿に向かう。
「そういえば、さっき話していた『ゔぁんぱいあ』とは一体何者なんだ?」
キンベエが二人に尋ねた。生まれた国が違うので馴染みのない言葉なのだ。
「ヴァンパイアというのは怪物の一種ですよ。闇夜に紛れて人々の前に現れては捕らえた者の生き血を吸う怪物です」
「生き血⁉︎ 血を吸うのか⁉︎ とんでもない奴がいるのだな」
「ええ。しかも姿は人に似ていますから一目見ただけではヴァンパイアだと判別するのは難しいとか」
「そうなのか。それは厄介だな……」
「ご安心を。ヴァンパイアにはいくつか人と違う特徴があります。鏡に映らない、光に当たると灰になってしまう、十字架や聖水など神聖なものに弱い。それに人とは違い、耳が少し尖っているそうですよ」
「外見に多少の違いがあるのか。それなら注意して見れば襲われる前に対処できるな」
「いやいや、それ全部迷信ですよ。実際にはヴァンパイアなんてもの自体存在しませんから」
キンベエがレオポルトに騙されかけているため、タバティエールはすかさず否定した。
ヴァンパイアが広く一般に知られるようになったのはブラム・ストーカーの怪奇小説である。それまでも各地でヴァンパイアの言い伝えなどはあったが、ごく一部の者達しか知らないオカルトな存在であった。
レオポルトの話の通り、ヴァンパイアには様々な特徴がある。その一つに〈ヴァンパイアは美しい若い女性を好む〉というものがある。この街で起きている事件は恐らくその特性と結びつけられ、奇妙な噂となって広まったのだろう。
「なるほど。人が忽然と姿を消したらわしの国では『神隠しにあった』と言うから、それと似たようなものか」
キンベエは納得し、大きく頷いた。
「ヴァンパイアは兎も角、若い女性が次々行方不明になっている、というのはちょっと気にはなりますね」
「そうだね。治安の悪い場所では人身売買目的の人攫いも横行しているようだし」
「ここでもそれが起きている可能性があるということか」
「かもしれませんね。まあ、だからって俺らがどうこうできることじゃあないですけど」
自分たちが動けるのはあくまで任務の範囲に限られる。これは任務に送り出してくれたマスターやレジスタンスの者たちに迷惑をかけないための最低限のルールだ。誰が決めたわけでもないが、各々それは自覚している。
今回与えられた任務は物資輸送班の護衛である。目的地であるこの街は基地《アジト》からさほど距離はないが、行くまでには野盗が出没する場所を通らなければならなかった。世界帝軍の目を掻い潜るルートがそこしかなかったのである。
じゃあ誰を行かせるかという話になった時、レオポルト、タバティエール、キンベエなら大丈夫だろうと三人の名が挙げられた。指名したのはマスターだった。経験やアクシデントへの対応力を考慮した、マスターお墨付きの信頼できる人選だった。
大丈夫だと信じてくれるマスターのためにも自分たちは無事に基地に戻らなければいけない。変なことに首を突っ込んでつまらない怪我をしてしまったら、マスターは怒りはせずとも悲しむだろう。
マスターを悲しませることは誰も望んではいない。それは三人も同じである。
そもそも二年も前から続いている失踪事件など自分たちの手に負える事柄ではない。二年もの間一切の手がかりもなく進展がない状態ということは、裏で怪しい動きがあるとしか思えない。
よって、余計なことには関わらない。触れない。近付かない。この街のことは〈そういう街〉程度の認識で留めておくに限る。
「ヴァンパイア、ね……」
タバティエールは煙草を咥え、手で風を遮り火をつけた。
細い白い煙は、闇夜にゆっくり飲み込まれていった。
本来なら街のレジスタンス基地に赴くまでゆっくり茶を楽しむ時間があったはずだった。けれど余計な予定を入れてしまったがためにそれは叶わぬものとなった。
昨晩バーの店主から貰ったメモを頼りに、三人は街中を彷徨っていた。丁寧に場所が記されていてもここは見知らぬ土地。メモだけで辿り着くのは、土地勘がない者には容易ではなかった。
度々道行く者に声をかけ、やっと目的地である民家に到着したのは時計の短針が十二に差しかかろうとしている頃。宿を出てから一時間半後のことだった。
ごく普通の、なんの変哲もない、隣接している家と似たような外装の一軒家。ドアの側には綺麗な花が植えられているプランターが並べらており、一見あの老人の家なのかと疑ってしまいそうになるが、ドライフラワーで飾られたメールボックスに幼い字で『Thomas & Carol』と黄色のペンキで書かれているので、ここで間違いないのだろう。
石造りの階段を登り、チャイムを鳴らす。ジリリという音が家の中に響くと、少ししてから
「はーい! ちょっと待っててください!」
と、可愛らしい声が聞こえた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
ドアから顔を覗かせたのは、昨晩トーマスを連れ帰った少女だった。彼女は怪訝そうに三人を見てから、思い出したように「ああ」と声を漏らした。
「こんにちはお嬢さん。ミスタ・トーマスはご在宅ですかな?」
「はい、いますけれど……あの、祖父が何か……?」
少女が不安そうに尋ねた。
「バーでトーマス殿の忘れ物を拾いまして。それをお届けに参りました」
「まあ、そうでしたか。わざわざありがとうございます」
少女は安堵の表情を見せ、頭を下げた。
彼女は先程『祖父に』ではなく『祖父が』と言った。まるでこちらが被害者であるような口振りである。そんな言葉が自然に出てしまうほど頻繁に、彼は周囲から冷たい扱いを受けるような何かをしているのかもしれない。
「どうぞお上りください。すぐにお茶の用意をしますね」
「お気遣いなく。トーマス殿にご挨拶ができましたらすぐに帰りますので」
「遠慮なさらないでください。せっかく来ていただいたのですから」
「突然大人数で押しかけてはトーマス殿にもご迷惑でしょう」
「大丈夫ですよ。祖父は賑やかな方が好きですから」
「はあ……ですが」
「どうぞ、ご案内します」
いくら誘いを断っても彼女は引かなかった。ドアを大きく開き、否が応でも三人を家に迎入れようとしている。反論を許さない強引さは、さすがトーマスの血縁者と言うべきか。
「お爺ちゃーん! お客様ー!」
少女が家全体に行き渡るように呼びかけた。しかし返事はなかった。
三人は顔を見合わせ、どうするか言葉には出さず話し合った。可能ならば早々に立ち去りたいのだが、快くもてなそうとしてくれているのを頑なに拒むのも心苦しいものがあった。
不動で無言の多数決。そして出た決定。
茶を一杯ご馳走になるだけなら。
三人は彼女に導かれるまま家に上がった。
案内されたのは入ってすぐの場所にある部屋だった。大きなガラス窓から差し込む光が部屋の中を明るく照らしている。
その窓を背に、トーマスが一人掛けの椅子に座っていた。目を閉じ、頬杖をついて、レコードから流れる男性の歌声に耳を傾けるように、静かにそこにいた。
「さあどうぞ。掛けてお待ちください」
三人にそう促し、少女は慌ただしく別の部屋へ消えた。
眠っているのだろうか。全く微動だにしないトーマスの姿に一同そう思った。原因は昨晩の酒か。それとも年齢によるものか。
どちらにしろ、彼が起きないのならここにいる意味はない。忘れ物を届け、代金を支払ってくれた礼を言うために赴いたのだから、これらが叶わないのであれば留まる理由はないだろう。
茶を用意しているであろう彼女には悪いが、伝言を頼んで立ち去った方がよさそうだ。
「屍臭《ししゅう》……」
不意に、誰かが呟いた。
「鉛、血、火薬……どこの誰だか知らんが、お前さんら、臭いがしっかりこびりついとるぞ」
声の主は目を閉じたまま告げた。
「……寝てたんじゃないのか爺さん」
誰が寝ているものかと、トーマスは厚い瞼をゆっくり上げた。
刹那、三人の背筋に寒気が走った。
身体が動かない。指の関節一つ動かすことすらできない。銃の姿に戻されてしまったかのようだ。今は確かに貴銃士の姿であるはずなのに。
酷く息苦しい。首を締められている……いや、首元にナイフを突きつけられている。何も触れていないにもかかわらず、首の薄皮に冷たい刃先の感触があるのだ。
一体何が起こったのか。そんなことを考える余裕は今の三人にはなかった。
辛うじて自覚できたのは、貴銃士として、人の身体の一部である心の臓が激しく動き、危険だと警告を発していることだけだった。
灰色の目。厚い瞼に隠されていたそれは、研がれた刃物の如く鋭い眼差しで三人を凝視していた。何も言わず、凝視して、ただそれだけで、彼らが隠していること全てを暴き出そうとしているようだった。
見られている方は、背中に滲んだ冷や汗の気持ち悪さに耐えるしかなかった。じっと、平静を装い、彼が視線をはずす瞬間を待った。
天敵に遭遇した動物のように、三人の男たちと一人の男は互いを警戒した。物寂しげな歌が流れているが、誰もそんなものに耳を傾けてはいなかった。戦場に足を踏み入れたような張り詰めた空気が、余計な音を彼らから奪っていた。
双方武器はない。手ぶらだ。よって、手近な物を投げるか、あるいは掴みかかって殴るかしなければ相手が傷付くことはない。
もしこの場に銃があったら——間違いなく銃口を彼に向けていた。たとえ敵ではなくても、本能がそうさせていただろう。
そう思わされるほど、トーマスは三人を圧倒していた。
「お待たせしました」
「——っ⁉︎」
一瞬だった。湖面の氷が、一瞬の太陽の輝きによって水に変化したように、空気が変わった。
「あの、どうかなさいましたか?」
「……いえ、なにも」
状況を理解していない少女は不思議そうに首を傾げた。男たちが無言で見つめ合っていた姿は、彼女にはさぞ妙な光景に見えたのだろう。
「キャロルや。なんだか知らん奴らが来ておるぞ」
「知らない人じゃないでしょ。昨日一緒に飲んでたじゃない」
「飲んどらん」
「飲んでました! 飲みすぎるといつもそうなんだから」
少女は呆れて溜息をついた。
「どうぞ。少し狭いかもしれませんがお掛けになってください」
「あ、ああ……」
「ありがとうございます……」
二人に気づかれないよう滲む手汗を拭い、三人は促されるままソファーに座った。
先のプレッシャーはなんだったのか。ティーセットを並べる少女を穏やかな表情で見つめるトーマスの姿に、疑問を抱かずにはいられない。今、目の前にいる老人が、命の危険を感じさせるような殺気を放っていた者と同一人物なのか、と。
「キャロル、儂は茶より酒がいい。酒はないのか?」
「ありません! あったとしてもお酒は夜だけって約束したでしょう?」
「覚えとらん」
「私は覚えてます。ちゃんと約束しました」
ぴしゃりと言うと、トーマスは渋々茶を啜《すす》った。
クッキーが並べられた皿を置くと、少女は話の邪魔にならないようにと気を遣って部屋から出て行こうとした。
「待て、キャロル」
トーマスが呼び止め、ここに座れと自分の隣を指で指し示した。
「え? でも……」
戸惑うように彼女はちらりとこちらに視線を送った。
「我々は構いませんよ」
寧ろいてくれた方が身の安全を確保できるので助かる。そんな本音を隠し、三人は少女の同席を快諾した。
彼女は申し訳なさそうに頭を下げると、オットマンを運んでトーマスの隣りに座った。
「どうだ。儂の自慢の孫のキャロルだ。可愛いだろ? ん?」
「ええ。昨晩伺っていた通り……いえ、それ以上に可憐なお嬢さんですね」
「そうだろう、そうだろう」
トーマスは機嫌をよくし、何度も深く頷いた。
キャロルの話は昨晩しつこいほど聞かされた。目に入れても痛くないくらい可愛く、命よりも大切な孫だと。こうして直接話をしてみると聞き及んでいた通りの人物で、何をどうしたらこの祖父とできのいい孫の血が繋がるのかと考えそうになる。
いや、恥ずかしそうにする彼女の頭をぐしゃぐしゃに撫でるところだけを見ると、間違いなく血縁者なのだろうなと思えるのだが。
「それで、儂に何の用だ?」
「用……? おっと、そうだった」
先のことで忘れかけていた本来の目的を思い出し、キンベエは昨晩拾ったメモをテーブルに置いた。
「酒場でトーマス殿が座っていた椅子の上に落ちていた」
トーマスはメモを手に取ると、少し書かれている内容を見てからズボンのポケットにしまった。どうやら彼の所有物だったようだ。
「お前さんら、こんなもんを届けるためにわざわざ来たのか?」
「ええ。それと、昨晩はすっかりご馳走になりましたので、そのお礼もできればと」
「……暇な連中だな」
「あ、ははは……」
メモを届けに来たのも、礼を言いに来たのもこちらの勝手だが、こうも素っ気ない態度をとられるとどう対応したらいいのか判断し難い。適当に愛想笑いをしてみせるが、これすら彼の気に触れてしまうとしたらもうどうしようもない。
「お爺ちゃん! お客様に失礼なこと言わないの!」
まるでものの善し悪しがわかっていない子供に言い聞かせるようにキャロルが注意した。
人間は歳をとると子供に還る傾向があるらしいが、トーマスの悪態は恐らくそれとは違うだろう。単にそういう性格なのだ。だから余計に、彼が更に年老いた時のことを思うと同情せずにはいられない。
「苦労するな……」
呟き、タバティエールは紅茶を啜った。
叱責されたことでトーマスはしつけられた犬のように大人しくなり、部屋から一切の会話が消えた。話題を振ろうにも彼が終始これでは話にならない。差し障りない話題を考えるだけで神経がすり減りそうだ。
先の殺気のことや彼の正体など、聞きたいことはあるが教えてはくれないだろう。なんのことかとはぐらかされて終わりだ。少なくともキャロルがここにいる限りは。
部屋に流れていた歌がぷつりと切れる。するとトーマスは腰を上げ、蓄音機を操作した。慣れた手つきでレコードを入れ替え、針を降ろすと、新しい曲が部屋に流れ始めた。
静かなギターの音と、男性の歌声。時々基地でブラウン・ベスとエンフィールドがギターに合わせて歌っているが、彼らの歌とは異なり、一人で酒を飲みながらゆっくり聞きたくなるような、哀愁漂う雰囲気の曲だ。
「良い曲ですな」
「ブルースの王、ジャック・マーカーだからな。いいに決まっとる」
「ぶるーす? じゃっく・まーかー?」
「なんだお前さん。ブルースを知らんのか?」
訝しげにトーマスが尋ねた。
「大衆音楽にはあまり詳しくないものでな」
「お恥ずかしながら私も。クラシックやオペラならわかるのですが」
「サース・バードの『LONELY Woman』、エリックブラザーズの『荒野の愛』くらいは聞いたことあるだろ?」
「いいや、全然」
歌手や曲名は疎か、ブルースという音楽があること自体聞いたのは初めてだった。自分たちがいた時代よりも後に生まれた新しい音楽なのだろう。
「……お前さんら人生の半分を損しとるぞ」
トーマスは紅茶で口を潤すと、ブルースがどういった音楽なのかを三人に語り始めた。南アメリカのアフリカ系アメリカ人の間で歌われていたのがもとであるとか、楽器はギターが主であるとか、ブルースの王と言われたジャック・マーカーという歌手がいて、彼がいかに素晴らしい歌手であるかとか。饒舌《じょうぜつ》に、一時間ほど語った。その間、悪態をつくことは一度もなかった。
「この曲はマーフィー・バトンが歌っているが、もとはブルース界初の女性シンガー、アレシア・ケラーの曲だ。こっちのレコードがアレシアのやつなんだが聞き比べると——」
「わかった! もういいって爺さん!」
いつまでも話が終わる気配がなく、タバティエールは無理矢理彼の話を遮った。最初は少し付き合ってやるか程度に聞いていたが、これ以上続くと昨晩の二の舞となってしまう。後の予定もあるのでもう付き合いきれなかった。
「何故止める? これからがいいところなんだぞ」
「お爺ちゃん、お客様は忙しいの。今日も用事の合間を縫って来てくださったんだから。そうですよね?」
「え、ええ、そうですね」
解放されるにはキャロルが出してくれた助け船に乗るしかないと判断し、三人は同意した。本当にできた孫である。
「なんだ。それならそうと最初に言えばいいだろう」
トーマスはふて腐れたように頬杖をついてそっぽを向いた。孫よりも大人なはずだが、孫よりも子供だ。
「それではミスタ・トーマス、我々はこれで失礼します。ミス・キャロルも美味しいお茶をありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。長く引き留めてしまい申し訳ありませんでした。私もこれから仕事に出ますので、途中までお送りします」
「いや、別に必要な——」
「キャロル。仕事になんか行かなくていいといつも言ってるだろ。働かなくても十分暮らせるだけの金はある」
「そう言うけど、お金は無限じゃないのよ。突然パって消えちゃったらどうするの?」
「そんなことあるもんか」
「泥棒に盗まれたり、銀行が潰れたりとか色々あるでしょ。戦争のせいで物の値段も上がってるんだから、働ける時は働いて、お金は貯めておかないと」
「ふん。もしそうなったら儂が全部取り返してやる」
「できもしないこと言わないの。ほら、もう飲まないならカップ頂戴」
飲む飲まないの返答を待たず、キャロルはティーセットを回収した。見送りは必要ないと言おうとしたが、彼女はそれを聞く前に部屋から出て行ってしまった。こちらの話を聞かないところはトーマスと相似《そうじ》している。
再びトーマスだけがいる空間に放置されてしまった三人は、警戒しつつゆっくりソファーから立ち上がった。
先のような威圧感はない。だが自然と脈が速くなる。動作と相反して激しく動く心臓の音で頭が痛くなりそうだった。
トーマスは順番に三人を見ると、背もたれに身体を預けて目を閉じた。そして静かに唇を動かし
「……あの子には何もするな」
一言、警告した。それ以外、彼は何も発しなかった。
「あ、ああ……」
何のための警告か。その意図が掴めず、間の抜けた返事をしてしまう。
彼は恐れているのだろう。突然家に上がり込んできた戦場の匂いを漂わせる男たちが可愛い孫に危害を加えることを。当然のことだ。自分たちもマスターや仲間に妙な者が近付いてきたら当たり前のように警戒する。だから彼の言動は何一つ間違っていない。
間違ってはいないのだが、微塵もそのつもりはないことだけはわかってほしいという気持ちもある。残念ながら伝わっていないようだが。
「お爺ちゃん、仕事に行ってくるね。ご飯はいつものところに置いてあるから、温めてから食べてね。わかった?」
仕事支度を終えたキャロルが、ドアに鍵をかける、火は付けっぱなしにしないなど、留守中に気を付けることを彼に伝えた。
「わかっとる、わかっとる。お前も早く帰ってくるんだぞ。遅くなるようなら必ず電話を寄越すんだ」
「はーい。いってきます」
キャロルが先に玄関へ向かうと、三人はトーマスに会釈をして部屋を出た。
一歩家から外へ出ると、開放感からか空気が美味く感じられた。心臓も落ち着きを取り戻し、いつもの鼓動を刻み始める。
「これからどちらに?」
「ちょっと掘り出し物を探しに骨董品屋を訪ねようかと」
レジスタンスの基地は、街中の小さな骨董品屋の地下にある。表向きをただの店にすることで世界帝軍の目を欺く効果があるため、わざわざ地下に拠点を作ったのだ。
「では途中のバス停までご一緒させてください」
キャロルがいつも使うバス停は骨董品屋に続く道の途中にあるらしい。四人はそこまで一緒に行くことにした。
「あの、すみませんでした。祖父はいつもああなんです。他人に悪態をつく癖があるみたいで……」
「大丈夫ですよ。私たちのことはお気になさらず」
「本当にすみません。普段は優しいんですけど、あれだけは何度注意しても直らなくて」
キャロルは溜息をついた。その溜息一つだけで、彼女がトーマスのことでどれだけ苦労してきたのかが窺える。
「一つ君に聞いてもいいか?」
「はい、なんでしょう?」
「じいさ——トーマスさんは昔一体何を?」
「昔、ですか? 確か兵士をしていたと。大きな戦争にも参加していたと聞いています」
昨晩、トーマスもそう言っていた。この話もどうやら嘘ではないらしい。
タバティエールが彼の過去について尋ねたのは、話の答え合わせをするためではない。信憑性のある昔話から、彼の正体を探るためだ。かつて何をしていたのかがわかれば、あの殺気の意味もわかると思ったのだ。
「兵士、ね。この国の兵士として戦っていたってことか」
「いいえ、祖父は正規の兵士ではなかったみたいです。古くからのお友達と一緒に傭兵をしていたと言っていました」
傭兵。戦うことを生業とする者。トーマスは自ら戦場に身を置くことを選んだらしい。傭兵になった経緯についてはキャロルも知らないらしいが、給料がよかったと冗談交じりに話していたそうだ。
「まさかとは思うが、トーマス殿は今も傭兵を?」
「流石にそれは。もういい歳ですから」
「引退されたのはいつ頃で?」
「十一年前です。理由は教えてくれませんでしたが、綺麗さっぱり辞めた、と」
「十一年……正規の軍人なら兎も角、傭兵としては引退時か」
「そうなんですか?」
「軍人なら歳を取って前線に出られなくても、それなりの功績を挙げていれば安全な場所で指示を出すだけの仕事なんかができる。でも、傭兵にはそれがない。身体にがたがきた時点で廃業は免れないだろうな。しかもじいさ——トーマスさんは狙撃手だったんだろ? 尚更、視覚や聴覚が鈍ったら仕事になりゃしない。ワンショットワンキルが狙撃手の矜持って言うなら、老いで手元が狂う前に引き際を見極めるだろうさ」
ぼんやりと知った顔が頭に浮かぶ。彼らはスナイパーとしてのプライドが高く、拘りが強い。こうと決めたら誰に批判されようと譲らない。スナイパーの矜持は彼らの美徳であり、弱点でもある。それを傍で見ていたから、トーマスもそうなのではと、タバティエールは考えていた。本人から聞いたわけではないのであくまで推測にすぎないが。
「お詳しいんですね」
「え?」
「軍人や傭兵のことに。もしかして、皆さんは関係者の方なんですか?」
「あ、いや、別に関係者ってわけじゃあ……」
誤魔化すように笑うと、なんとかしろと言いたげなキンベエに肘で小突かれた。
「そ、そう。本! 最近読んだ本に書いてあってな、うん」
「まあ、そうだったんですね」
あからさまにわかりやすい嘘なのだが、キャロルはあっさりそれを信じた。二人は安堵し、小さく息を吐いた。
このご時世、誰が世界帝軍と繋がっているかわからない。無害なふりをして実は……というのはよくある話だ。彼女がそうであると疑っているわけではないが、自分たちがレジスタンス側の関係者であるということは隠し通す必要がある。些細な言動から大事になってしまったら、マスターだけではなく、レジスタンス全体が危機に陥るかもしれない。それを避けるために、限りなく無害な一般人を演じなければならない。
「あの、私からも一つ皆さんにお伺いしてもいいですか?」
キャロルが問う。何を訊くつもりかと三人は思わず身構えた。
「皆さんは、その……この戦争をどう思われますか?」
彼女は少し周囲を気にしながら尋ねた。気にしているのは恐らく、街の各所で見られる世界帝軍兵士の存在だろう。
「どう、とは?」
「最近、またレジスタンスの活動が活発化していると噂で聞きました。この街ではまだ何も起きていませんし、レジスタンスがいるという話も聞いたことがありませんが、他の場所では世界帝軍とレジスタンスが戦っている、と」
「そう、みたいだな」
さも関係なさそうに、興味がなさそうに相槌を打ってはみるが、背中にはじっとり冷や汗が滲んでいた。返答には気をつけろ。感づかれるな。下手を打たないよう、自身に言い聞かせる。
「私は……私には、レジスタンスが正しいと思えないんです」
一瞬、胸に細い針が刺さったような痛みが走る。
「と、言いますと?」
「自由と尊厳を取り戻す。確かにその志は素晴らしいと思います。ですが、それを実現するために無関係の人を巻き込んでもいいのでしょうか?」
彼女の問いに三人は答えなかった。いや、答えられなかった。彼女が納得するような答えを持ち合わせていなかったのだ。
被害は極力少なくなるように努めている。一般市民に被害が及ばないよう、人がいない場所、時間を選び、作戦を遂行している。
けれど状況によっては難しいこともある。どんなに念入りに作戦を立てたとしても相手が上回っていた場合、被害は免れない。
助けようとしても助けられない時はある。目の前で倒れている人々を踏み越え、生き延びなければならない時もある。これは現代に限った話ではない。昔から、戦争とはそういうものなのだ。正しい、正しくないでは到底片付けられない話なのである。
「……ごめんなさい! やっぱりこの話は忘れてください」
返答に困っていることに気づき、彼女は焦るように質問を撤回した。
それから彼女は唇を固く閉ざしてしまった。ただ前だけを見つめ、無言で目的地に向けて歩みを進めた。
押し黙ってしまった彼女にかけるべき言葉が見つからない。歳の近い者なら別の話題にすり替えるなどして会話を繋げることができるのだろうが、歳が離れすぎている自分たちには難易度が高い。キンベエとレオポルトはこの中では最年少のタバティエールに視線を送るが引き受けるはずもなく、彼はパタパタと手を倒して無理だと意思表示をした。
「あ……」
四人の横をバスが通り過ぎ、キャロルが小さく声を漏らした。
バスは少し先にあるバス停に止まった。並んでいた者たちが乗車し始めると、キャロルはハッとしてこちらを向いた。
「あの、私——!」
「構いませんよ。お気をつけて」
どうやらあのバスに乗らないといけないらしく、彼女は深々と頭を下げると、急ぎバスに飛び乗った。
三人は彼女が乗ったバスを見送った。徐々に遠く、小さくなり、先の角を曲がって見えなくなったところで
「はぁ……やっと解放された」
重たい荷を下ろすが如く、強ばっていた肩を下ろした。
「まったく……何度肝が冷えたか……」
「流石は元傭兵とそのお孫さんですな。いやはや任務外でこんなに疲れるとは思ってもみませんでした」
「本当にのお……あのご老体には恐れ入った。引退しても兵士の本能は消えないもんなんだな」
「そのようですね」
「——っと、お前さんはさっきから何をやっとるんだ?」
話をしている横で一人袖の臭いを嗅いでいるタバティエールに尋ねた。
「ああ、いや。煙草臭いとはよく言われるんですけどね、他にも臭ってんのかなと」
「臭い? トーマス殿が言っていたことかい?」
「やっぱり、そういう臭いが染みついてるんですかね、俺ら」
「そうかもしれんな。だが避けようのないことだ、あまり気にするな」
「気にしちゃいないんですけどね。ただ、爺さんみたいにわかる人間にはわかるんだなと」
「どんなに装っても完璧に隠しきることはできない。ということだね」
何がきっかけで正体が暴かれるかわからない。その恐ろしさを三人は身をもって体験した。もしトーマスが世界帝軍と繋がりを持っている人間だとしたら、怪しい人物がいると密告されるだろう。捕らわれ、帝都送りになるに違いない。
だが幸いなことに周囲の世界帝軍兵士はこちらを見ても動く気配はなかった。現時点ではトーマスは性格以外は害のない存在と判断していい。
「でもやっぱ臭うのはなあ……新しい石鹸でも買って帰りますか」
「それはいいね。グレートルとカールのお土産にも丁度いい」
「ではわしはフルサト殿への土産に一つ買っていくかな」
「マスターちゃんは……やっぱり薔薇の香りの石鹸ってとこですかね」
「そうだな。だがあまり香りが強すぎるのはな……前にサカイがマスターへの土産で買ってきた薔薇の香り袋はちと匂いがきつくて酔ってしまいそうになった」
「何を買うかは店でゆっくり考えるとしましょう。まずは遅れてしまったことを謝らないといけませんからね」
キンベエとタバティエールは頷き、同意した。
時間は既に十四時を過ぎている。待ち人はいつまでも来ない尋ね人を恋い焦がれる少女のように待っていることだろう。
世界帝軍兵士に注意を払いつつ、三人は目的地へと向かった。
「この度はありがとうございました」
赤茶色の髪の青年が三人に頭を下げ、礼を言った。
「礼には及びません。活動場所は違えど同じレジスタンス。協力し合うのが当然でしょう」
レオポルトが言うと、青年はもう一度礼を告げ、やっと頭を上げた。
彼はこの街を拠点とし活動しているレジスタンスのリーダーである。歳は恭遠とあまり変わらない。若いながらチームをしっかりまとめている真面目な青年だ。
「しっかし、大量の火薬を分けてくれって手紙には恭遠も驚いてたぜ。花火でも打ち上げるつもりかって」
「あはは……まあ、そんなところです」
青年は髪を掻き、空笑いした。
「そうだ。皆さんからお預かりしていた銃をお返しします」
彼は袋に収められた銃を三挺テーブルに並べた。三人は銃袋を開けることなく各々の銃を手に取った。
「いかがですかタバティエールさん。気にされていた箇所は全て調節しましたが」
タバティエールは銃を取り出し、不備がないか動作を確認した。試し撃ちをしないことにはイエスともノーとも言えないが、見た限りでは特に問題はなさそうだった。
「一応大丈夫そうだ。悪いな無理言って預けちまって。うちの職人がぎっくり腰にさえならなければなぁ」
数日前、基地で銃の整備を担っていた職人が突然ぎっくり腰になり寝たきりの状態になってしまった。タバティエールは少し銃の調子が気になり整備を頼もうと思っていたのだが、彼がそんな状態なので結局そのまま任務に出た。今すぐ直さなければという程のことではなかったが、ドライゼではないがやはり完璧な状態であることに越したことはなく、青年に整備が可能な職人がいないか尋ねた。すると整備なら自分ができると青年が言ったので、一晩彼に預けた次第である。
「貴銃士の皆さんのお役に立てて光栄です。時間がありましたのでレオポルトさん、キンベエさんの銃も一緒に見ておきました。お二人の銃は特に問題はありませんでしたよ」
「おや、そうでしたか。ありがとうございます」
「忙しいのにすまんな。お、銃身が綺麗になっとるのお」
「確かに。持ってきた時より綺麗になってますね」
彼から受け取った銃は、基地から持ち出した時よりは遥かに艶やかで輝いていた。小まめに銃を磨いているつもりだが、精々少し汚れが取れたのがわかる程度である。新品同様の輝きを取り戻すことはまずない。
三人は青年に礼を言い、銃を袋に戻した。
「しかし約半日とはいえ、銃が手近になく不安ではありませんでしたか?」
「いいや。寧ろ初めて手元に銃がなくてよかったと思ったくらいだ」
「はあ……何かあったんですか? 皆さん随分とお疲れのご様子ですし」
それは……と、三人は顔を見合わせてからここに来るまでにあったことを青年に順を追って説明した。
「……そうでしたか。お約束の時間になってもいらっしゃらなかったので何かあったのではと心配していたのですが……まさかトーマスさんに捕まっていらっしゃったとは」
「笑いごとじゃないぞ。こっちはどれだけ大変だったか」
キンベエが苦言を呈すと、青年は咳払いをして緩んだ口元をもとに戻した。
「だがその口ぶり。お前さんもご老体を知っているようだな」
「勿論知っていますよ。この街で知らない方なんていないくらい有名ですから」
「へぇ……よかったらどんな爺さんなのか俺らに教えてくれないか」
言うと、青年は一瞬何故と疑問符を浮かべたが、自分が知っていることはそんなに多くないと前置きをした上で、トーマスについて話し始めた。
「トーマスさんは十年前にお孫さんと一緒にこの街にやって来ました。以前は傭兵として戦場で活躍していたそうです。お酒が大好きな方で、僕も何度かご一緒したことがあります。話し好きな方でもありますから、一度捕まると三時間は捕まりっぱなしで逃げられません」
「戦場でどれだけ活躍したとか、孫が可愛いとか、ずっと聞かされてたんだろ?」
「ええ、そうです。何度も何度も同じ話をされるので流石に参りました」
青年がトーマスから聞いた話の殆どは三人も昨晩聞かされたものばかりだった。唯一彼が知らなかったのはブルースが好きで、家に蓄音機があるということだけだった。
「では、彼が以前どこに雇われていたのかはご存知でしょうか?」
青年の質問に、三人は首を振って答えた。
「どこの国に雇われてたんだ?」
「国ではありません……世界帝軍ですよ」
「っ⁉︎」
告げられた事実に、息が止まりかける。全身の血液が瞬時に凍りつき、彼らを震え上がらせた。
「その話……本当なのか?」
「本人から伺いましたので間違いありません。まあ、正しくは世界帝軍の幹部に個人的に雇われていた、ですが」
大戦後、世界帝による統治が始まると、彼はその腕を買われ、幹部の一人に雇われた。以前からその人物とは交流があり、報酬も大戦時の倍以上の額を提示されたことで快く引き受けたそうだ。それから引退するまでは何度も反抗勢力と戦ったらしい。
「拙いことになったのお。まさかよりにもよって世界帝軍の関係者だったとは」
自責の念にかられ、頭を抱える。
「落ち着いてください。大丈夫ですよ」
敵に通じる人物と接触したにもかかわらず、青年は恐ろしく冷静だった。それどころか、こちらに落ち着けとも言ってくる。とっくに覚悟を決めているのかと思ったが、彼の目は先までと変わらない穏やかなものだった。
「彼はもう世界帝軍とは一切関わりを持っていません。自ら関わることを拒絶しています。世界帝軍だけではなく、我々レジスタンスとも」
「……どういうことだ?」
尋ねると、青年は彼と出会った時のことを三人に話した。
青年がトーマスに出会ったのは約一年前のことだった。レジスタンスの仲間を集め、拠点と武器を得て、本格的に始動する前夜にバーで彼と出会ったそうだ。長々と彼の自慢話に付き合っていると、突然人が変わったように静かに世界帝軍に雇われていた頃の話を彼にしたらしい。
何故その話を自分にしたのかわからないと青年は言った。けれど身に覚えがあることもあり、三人はすぐに察した。恐らく彼が秘密裏に世界帝軍に反旗を翻そうとしていることを表情や臭い、雰囲気から読み取ったのだろう。
「後日、僕は彼の家に赴きました。目的はレジスタンスの勧誘と世界帝軍に関する情報提供の交渉です」
「世界帝軍の関係者ってわかった上で交渉したのか? 見かけによらず肝が座ってんだな」
「いえいえ、恐縮です」
「いや褒めてねえからな」
顔を赤らめて照れる青年に、タバティエールは捉え方が違うと指摘した。
「それで、トーマス殿はなんと?」
「断られました。先にもお話しした通り、レジスタンスにも世界帝軍にも関わりたくないと」
「しかし妙だな。レジスタンスは兎も角、雇い主だった世界帝軍との関係も断ち切りたいとは。そう決断させるだけのことが過去にあったということか?」
「わかりません。理由は一切教えてはくださいませんでした」
「世界帝軍の内部情報も何も得られなかったのか?」
「ええ。情報を口外しないことが雇用契約を解除する条件だったそうです」
「十年経ってもそいつを守ってるってことか。意外と律儀なんだな、あの爺さん」
「いえ、そうではないと思います」
青年は否定した。
「彼はこう仰いました。『孫と静かに暮らしたいから邪魔しないでくれ』と。恐らく彼は契約を反故にしたくないのではなく、お孫さんを危険な目に遭わせたくないのでしょう。もし情報源がトーマスさんだと知られてしまったら、彼だけでなく、お孫さんの命も危うくなるでしょうから」
ああ、そういうことか。彼の話で、喉に刺さった小骨が取れたような気がした。
『……あの子には何もするな』
キャロルだけはこの戦争に巻き込まないでくれ。彼はそう言いたかったのだ。過剰に警戒していたのも、こちらが彼女に危害を加える人間かどうかを見定めるためだったからだろう。
「愛する孫のため、か……」
嚙み締めるようにキンベエは呟いた。
「ですから、別段トーマスさんを避ける必要はありませんよ。長々とお酒と昔話に付き合いたくない、というなら別ですが」
彼は冗談交じりに言った。
「寧ろ注意すべきは彼ではなく、別の人物です」
彼の目つきが変わったのを三人は見逃さなかった。
「別?」
「この街には我々の命を脅かす存在がいます」
彼は会話が外に漏れるのを警戒するように声のトーンを落とした。
「それって、まさか〈ヴァンパイア〉のことか?」
「ご存知でしたか」
「まあ、な。それも爺さんから聞いた」
「トーマスさんから? そうでしたか……」
「数年の間に何人も若い女子が誘拐されたそうだな。手がかりもなく、捜査が難航していると聞いたが……本当なのか?」
「それは……」
呟くと、彼は目を伏せて首を横に振った。
「捜査が進んでいないのではなく、捜査そのものが行われていません。他人《ひと》の目がありますから一応調査の〈ようなこと〉は行われましたが、それだけです」
「……どういうことですかな?」
レオポルトが尋ねると、青年は少し周囲を気にするように目を左右に動かしてから、静かに話を続けた。
「ヴァンパイアには事件を揉み消すだけの力があるということです」
「呪《まじな》い的なものか?」
「呪い……なら、その方がまだマシですよ。人知の及ばないものなら諦めがつきますから。ですが、目に見える圧倒的な力が関係しているからこそ、無力な人々は怯え、手が届きそうで届かないもどかしさに苦しめられるのです……」
妙に含みのある言い方だった。何が言いたいのか全く伝わってこない。ここには彼と、自分たち三人しかいないのだから単刀直入に話せばいいというのに。何故、彼は躊躇っているのだろうか。
「あー……ちゃんとわかるように説明してくれんか?」
「申し訳ありません。ですが、その……貴銃士の皆さんは正義感が強く、中には無謀なことをする方々がいると聞いておりますので……」
だから真実を伝えるべきか迷っている。彼の言葉を聞いて、三人はどうしてかこちらの方が悪いことをした気分になった。
「まあ、それは、あれだ……若い子たちは血の気が多いからなあ……若さ故の過ちってやつだな」
思い当たることがいくつも脳裏を過ぎる。マスターと、マスターが守ろうとする者たちのために行動を起こす貴銃士は確かにいて、彼らの行動が他の者たちに迷惑をかけたことも事実だ。最近は彼らも落ち着いてきたのでそういうことはなくなったが、一度刷り込まれてしまったイメージを払拭するのは容易ではないのだろう。青年の中では、貴銃士は無鉄砲なことをする者たちという印象が強く残ってしまっているようだ。
「しかしなあ、わしらがそんな風に見えるか?」
「いえ、決してそのようなことは……申し訳ありません。気分を悪くされましたよね」
青年は頭を下げた。
「では、どうかこのことは街を出るまで他言無用でお願いします。他でもない、ご自身を守るためにも」
三人は頷き、応諾した。
「ヴァンパイアは……世界帝軍と強い繋がりを持っています。事件が一向に解決しないのはそのせいです」
ヴァンパイアの背後に控える圧倒的な力の存在。それが関係しているというだけで、街で起きている騒動が一筋縄ではいかないと思い知らされる。
「この街、やけに兵士の数が多いと思いませんか?」
「……確かに。他の街に比べて多い気がしますな」
「実は兵士の半数以上がヴァンパイアが世界帝から借り受けた者たちなのです」
「借り受けた? わざわざ金を払って街の兵士を増やしたのか?」
「そうです。ですがヴァンパイアが多くの兵士を必要としたのは街のためでも、世界帝のためでもありません。全ては、自分の思い通りに街を動かすためです」
ヴァンパイアに買われた兵士は、言ってしまえば自身に徒なす者から守る盾であり、処分するための銃だ。当然不都合なことがあれば彼らを使って揉み消すことも可能だ。更に、力を行使せずとも支配の象徴とも言える存在を知らしめるだけで、人々を閉口させることができる。金銭に余裕がある者からしたら、金で買える権力ほど利用しやすいものはないのだろう。
「なあ、確認してもいいか?」
「なんでしょう?」
「この街にいるヴァンパイアっていうのは、生き血を吸う怪物のことじゃないんだよな?」
「ええ、そうです」
「ってことは、戦えない相手じゃないってことだな?」
「一応、そういうことにはなります」
「で、いつ動くつもりなんだ?」
タバティエールは青年を真っ直ぐ見据えた。
「まさか世界帝の威を借る大馬鹿を野放しにする、なんて言わないよな?」
青年は答えなかった。代わりに、肯定するように口角を僅かに上げた。
「……流石。貴銃士の皆さんには隠しごとはできませんね」
彼は両手を軽く上げ、降参の意を示した。
「詳細はまだお伝えできませんが、近いうちに、とだけ」
「他の支部から火薬を集めておったのはそのためか」
「その通りです。あとはいくらか銃を集め、火薬で〈花火〉を作れば作戦を実行に移すことができます」
「盛大な花火が見られそうですな」
傍若無人な愚か者を街から排除する。青年は以前より強い意志を持って作戦を立て、準備を着々と進めていたらしい。世界帝軍兵士の監視の目が厳しく、必要な道具を集めることすら困難であったが、他の支部からの援助もあり、ようやく前進できる段階となったようだ。
「人手は足りてるか?」
「頭数は揃っています。ですが、我々は戦いの経験がない、銃の扱いも不慣れな素人です。訓練された兵士と戦うなら、やはり手練れがいるに越したことはありません」
「なら、その時が来たらうちに声をかけてくれ。血気盛んな若い貴銃士を寄越してやるから」
「あ、はは……ええ、その時は是非」
救援の提案をしてはみたが、実際動けるかどうかはマスターの判断次第である。マスターがいいと言えばいいのだが、許可が下りなかった時は可哀想だが遠くから無事を祈ることしかできない。
だが、その心配は不要だろう。街の状況を伝えれば、マスターはすぐに助けに行こうと言うはずだ。たとえ周りが止めたとしても、自分一人でも行くと言い出すに違いない。マスターはそういう人なのだ。
「ヴァンパイアについてもう少し伺っても?」
「勿論。答えられる範囲であれば」
「では、まずは〈ヴァンパイア〉の名前を教えていただけますか?」
ヴァンパイアという名は俗称だ。かしこで噂を立てるものがいないか目を光らせている者たちから逃れるために作られた隠語である。女性を次々と攫っている者におあつらえ向きの呼び方である。
「ハーリー・ペイン。それがヴァンパイアの名前です」
「その者はどういった人物で?」
「車両の部品工場の社長です。三年前に前社長であった父親が亡くなり、跡を継ぎました。世界帝軍が所有する軍用車の部品だけでなく、銃の部品製造にも関わっているとか。親の代からずっと世界帝軍と繋がっている厄介な人物です」
「世界帝軍は大事なお得意様ってことか。そりゃ羽振りもよくなるな」
「そうですね。ですが、彼の収入源はそれだけではありません」
「ほう。他にも何か事業を?」
レオポルトが訊くと、青年は目を伏せて首を横に振った。
「事業とはとても言い難い。彼がやっているのは人身売買という立派な犯罪ですよ」
「人身売買だと⁉︎ まさか娘たちを誘拐しているのは」
「彼女たちを労働力や金持ちの玩具《おもちゃ》として売るためです」
このご時世、人身売買は珍しいものではない。何度も耳にするし、取引現場に行き、誘拐された者たちを助けたこともある。
もしかしたら、という話を昨晩したばかりだった三人は、嫌な予感が的中してしまい胸を抉られる思いだった。不幸な予感など当たらない方がいい。
「このことは街の方々もご存知で?」
青年は頷いた。
誘拐事件が起きてから数ヶ月後、偶然攫われた女性たちが車両に乗せられ、どこかへ運ばれるのを目撃した人物がいた。その人物はすぐに他の者にそのことを伝え、間をあけず街中で女性たちを奪還せんと行動を起こした。
奪還作戦は真夜中に行われた。二つのグループを作り、一方がハーリーの屋敷の前で騒ぎを起こして彼と警護の兵士の気を引き、その間に別のグループが屋敷に侵入して女性たちを助けるというシンプルなものだった。武器らしい武器は持っていなかったが、念入りに警護の人数、配置、交代時間などを下調べをして作戦を練っていたため、成功の可能性はゼロではなかった。
誰もがそう思っていた。
「ですが、彼の屋敷には想定していたよりも遥かに多い数の兵士が護衛にあたっていたのです……何故か、その日に限って」
「……内通者がいたってことか」
突然発覚した裏切り者の存在。仲間のふりをして作戦会議に加わっていた者が密告したことにより、決行日だけ兵士の数や配置などが変更されたのである。
想定外の事態によりその場にいた者たちは全員射殺され、翌日街の広場に見せしめとして並べられた。その光景はヴァンパイアのモデルとも言われているヴラド・ツェペシュを彷彿させるものだった。
街を救う英雄になるはずだった者たちの無残な姿。それを目にした人々はハーリーと、彼に通じる裏切り者を恐れ、以降誰一人として女性たちを助けようとは言わなくなった。
そして彼は誰も罰することができない怪物、ヴァンパイアとなったのである。
「これが僕が把握しているヴァンパイアの真実です。月並みの情報しかありませんが、何卒」
「これだけわかれば十分ですよ。情状酌量の余地がない愚物が存在しているということだけで、ね」
重い空気が漂う狭い部屋で、男たちは更に重々しい溜息をついた。ゆっくり静かに息を吐くと、荒ぶりそうな心も落ち着きを取り戻していった。
「しかし、まあ、なんだ。お前さんが話すのを躊躇った理由がよくわかった。こんな話を聞かされたら、若い衆はすぐに飛び出していくだろうからな」
「そんなことになったら銃を壊してでも止めますよ。今回来てくださったのが皆さんでよかったです」
「あはは、同感だ」
偶然とはいえマスターの人選は間違っていなかったようだ。安堵する青年にタバティエールは苦笑いで応えた。
「大丈夫だと思いますが、どうか……」
「ええ、承知していますよ」
街を出るまでハーリー・ペインには近付かない。目立つようなことはしない。安心してほしいと青年に告げた。
「今夜中には出立するつもりだしな。余程のことがない限り平気だろ」
この街に長居する予定はもとからなかった。滞在費に余裕がないのもそうだが、あまり長く基地を留守にしているとマスターや仲間のことが気になってしまうのだ。自分たちがいなくて大丈夫かと。
信頼はしている。ただ心配なだけだ。初めて会った時と比べたら見違えるほど成長しているが、それでも目が離せないのは変わらない。特にマスターが。
「今夜……そうですか。もしお時間をいただけるようでしたらご一緒にお食事でもと思ったのですが」
「おいおい、おじさんたちをディナーデートに誘ってどうすんだ?」
「ロマンチックな演出はできませんが、皆さんと少し世間話でもと思いまして」
「奢りか?」
「勿論、僕の奢りです」
「冗談だっての。どうします? 少し腹拵えしてから出発しますか?」
タバティエールが二人に尋ねた。
「断る理由もないからな」
「そうですね。お言葉に甘えさせていただきましょうか」
「ありがとうございます。訊きたいことが山ほどありますので嬉しいです」
「お手柔らかにお願いします」
質問をされても答えられることは多くない。もとは銃で、マスターの力で貴銃士となったこと。趣味や基地での過ごし方。自分が生まれた時代の話。それくらいだ。一番訊きたいであろうマスターの力や自分たちの存在について深く詮索されても、答えることはできない。
「それでは早速……と言いたいところですがまだ早いですね。皆さんどこか行きたいところや買いたい物などはありませんか? ご案内します」
「そいつはありがたい。丁度土産を買いに行こうって話になってたんだ。案内してくれるなら大助かりだ」
三人は石鹸が売っている店はないかと青年に訊いた。彼は『石鹸ですか?』と不思議そうに首を傾げたが、専門の店があるとのことで、出かける準備のため、一旦自室に戻っていった。
三人は銃を担ぎ、一足早く骨董品屋の倉庫に繋がる階段を上がった。
お気に入りの店なんですよとディナーに連れてこられた店は、なんだか見覚えのある場所だった。それもそのはずで、そこは間違いなく昨晩三人がトーマスに絡まれたバーだったのである。
店員、客含め、この店にあまりいい印象を持っていない。しかし厚意で誘ってくれた手前、嫌だとも言えず、三人は仕方なく昨日と同じ席に座った。
狭いテーブルに彼がお勧めだと言う料理が並べられる。酒も勧められたが、出立前なのでそれは断った。
食事をしながら、彼は様々なことを三人に質問した。誰もが気になるような当たり障りのない質問が殆どで、雑談を交えながら答えていった。
「皆さんに訊くようなことではないとは思いますが、仲間たちから絶対に訊いてくれと頼まれたことがありまして」
青年が指でグラスの縁を撫でながら、気恥ずかしそうに言った。
「皆さんのマスターさん……彼女にはその……恋人とかいらっしゃるんでしょうか?」
突然マスターの色恋事情を訊かれ、タバティエールは水を吹き出し、キンベエはポテトを喉に詰まらせた。
「これはこれは。質問のタイプが変わりましたな」
むせるキンベエの背中を摩りながら、一人取り乱すことなくレオポルトが言った。
「以前マスターさんが『月刊NOBLE』に取り上げられていたことがありましたよね。それを読んだ仲間が是非お近づきになりたいと言っておりまして。貴銃士の皆さんが来ると知ってから、ずっと訊いてほしいとせがまれていたんです」
「そんなことまで頼まれるなんて、リーダーも大変だな」
「まったくです。それで、どうなんでしょうか?」
「さあ、な。レオポルトさんは知ってます?」
レオポルトは首を振って否定した。
「何分、そういう華のある話はおじさんのところには入ってこないものだから。グレートルなら知っているかもしれないね」
「好きだの嫌いだのの話はマルガリータくんとかスプリングくんくらい精神的に若い子の得意分野ですからね」
「『恋バナ』だったかな。あの子を見てると、恋の話で盛り上がれるのは若者の特権だとつくづく感じさせられるよ」
「歳をとると甘酸っぱい恋とは縁遠くなりますからね。いやー若いって羨ましい」
レオポルトもタバティエールも、心身ともに甘い恋に心躍らせる年齢ではない。誰と誰が好き合っているという話を小耳に挟むことはあっても、日常のほんの一つの出来事という認識でしかないのである。敢《あ》えてそれを話題の中心にして他者と盛り上がる、などということはしない。マルガリータのように意中の相手を聞き出そうなんて考えたこともない。
つまるところ、自分たちの耳に入っていない他者の恋愛事情など知るわけがないのだ。
「マスターちゃんのことなら嫌でも俺らの耳に入るだろうし……浮いた話がないってことは、そういうことなんだろうな」
「つまり恋人はいないと」
「今のところはな」
「そうですか。彼がこれを聞いたら喜ぶでしょうね」
「でも油断は禁物です」
喜ぶのは早いと、レオポルトが忠告した。
「貴銃士に限らず、マスターくんに好意を抱いている男性は多いようですから。のんびり構えていたらすぐに取られてしまいますよ」
「ああ、やっぱり。写真を拝見しましたが、僕も魅力的な女性だと思いました。彼が熱を上げるのもわかります」
青年は何度も大きく頷いた。
「マスターちゃんはなぁ……見た目以上に中身がよくできてるからなぁ……優しくてしっかりしてて、それでいて度胸もある。男心にはちょっと鈍いが、それも含めてみんなマスターちゃんのことが大好きなんだ」
マスターが誰よりも素敵な人物であることは、貴銃士として目覚めた時から認識している。寧ろそういう人物であったからか彼女の貴銃士になったのだ。心惹かれてしまうのは必然と言ってもいい。仮に彼女が女性でなくても、それは変わらないだろう。マスターは人としてとても魅力的なのだ。
魅力的で、たまたま女性であったから〈好き〉という感情が少し違う形に変化してしまった者たちがいるのだ。第三者から見てもわかる者もいれば、想いを内に隠している〈つもり〉の者もいる。彼らには抜け駆け禁止という暗黙のルールがあるようだが、いつまで守られるかは二人にも予測できない。いつ、誰が河川が決壊するようにマスターへの愛情が溢れ出てもおかしくない状態なのである。
「マスターに色事はまだ早い!」
飲み干したグラスをテーブルに叩きつけ、キンベエが怒鳴った。それに驚き、周囲の客の視線がこちらに集中したが、単に父親が娘の交際に反対しているだけかと、すぐに自分たちの話題に戻った。
「キ、キンベエさん? 大声を出してどうし——」
「まったく最近の若いもんは! 惚れた腫れたなど現《うつつ》を抜かしおって。今がどういう時かわかっているのか⁉︎」
「え、ええ……」
「そもそもお前さんの仲間はなんだ。惚れておるなら人伝に聞こうとせず自分でマスターに訊けばいいだろう。自分で恋人の有無すら確認できないような小心者にマスターはくれてやらん!」
「は、はぁ……いや、その——」
「くれてやらんって……」
マスターはキンベエの娘じゃない。と、口を挟もうとしたが彼が更にヒートアップするような気配があったのでタバティエールは煙草を咥えて黙っていることにした。
「マスターは若い。若すぎる。未熟だ。嫁に行ってもおかしくない年齢ではあるが、中身がまだ子供だ。少なくとも気に入りのくまの人形がないと寝られないとか言っている間は誰にもやらん。もし妙な男に捕まって何かあったら、マスターの亡くなった親御さんに申し訳が立たんしな」
「そ、そうで——」
「大体若いもんはどうしてああも恥ずかしげもなく『好き』だの『愛してる』だの言えるんだ? 文化の違い、というものだからそれ自体にとやかく言うつもりはないが、言われる度にマスターがどれだけ動揺しているかわかっているのか? こっちの国の者にしてみれば挨拶のようなものかもしれんが、限度と節度ってものがあるだろ。見ていて気が気じゃないぞ、わしは」
「まあ、でも——」
「兎に角だ! マスターは誰にもくれてやるつもりはない! どうしても交際したいと言うなら、わしら全員の屍を越えてみせろ!」
「……はい、なんか、すみませんでした」
キンベエの堂々たる父親ぶりに恐縮してしまった青年は、別に悪いことをしたわけではないが謝罪した。
「これ酒でも入ってんのか?」
あまりにもキンベエが熱くマスターの男女交際について語るので、もしかして間違えてアルコールを出されたのではないかと疑い、タバティエールは自分のグラスに入っている水の匂いを嗅いだ。無臭だった。
「まあまあ、彼女のことは彼女に委ねるしかありませんし、この話はここまでということで」
「ええ、そうですね……」
青年は困ったように眉を下げ、同意した。キンベエの熱弁に対しどんな感想を抱いたのかはわからないが、仲間一同、マスターの恋人候補からはずれたことは間違いないだろう。
マスターもマスターだとぼやくキンベエを宥めつつ、一度仕切り直そうと、追加注文をするためタバティエールは近くの店員を呼んだ。
呼ばれた店員は空いたテーブルの片付けをしながら、こちらを見て返事をした。
が、その声はドアベルと、勢いよく開かれたドアの音で消えた。
ドアを壊す勢いで店に入ってきたのは非常に見覚えのある人物だった。彼は大きく肩を上下させ、大股で店の床を踏み鳴らした。
拙いなと、三人は彼に見つからないよう顔を逸らした。
三人は月が西に傾く前に街から出る予定だった。よって、彼の酒に付き合うわけにはいかなかった。まるで敵地潜伏の任務でもしているかのように、自分たちの存在を周囲に溶け込ませた。
息を潜め、彼が大人しく帰るのを待つ。
「キャロルを! 儂の孫を見なかったか⁉︎」
彼が叫んだ。
「誰か! キャロルが! キャロルが帰って来んのだ! 知ってる者はおらんのか⁉︎」
なおも彼は問い叫ぶ。だが返ってきたのは静寂だけだった。トーマスの声だけが虚しく店内に響き渡った。
キャロルに何かあったのだろうか。レオポルトが振り向き、確認しようとした。
それを、キンベエが肩を掴んで止めた。
タバティエールは煙草を咥えたまま灰皿を眺め、聴覚だけを彼に向けた。
「落ち着いてください」
「落ち着け⁉︎ 落ち着けだと⁉︎ キャロルがいなくなったというのに落ち着いていられるか!」
「いいから落ち着けって爺さん。そんな慌てなくても明日の朝には帰ってくるって」
「なにっ⁉︎」
「あの子だって年頃の女の子だぜ。察しろよ爺さん」
酔った男性がトーマスを茶化した。
直後、グラスと、重量がある何かが床に落とされる音がした。
「ふざけたことを抜かすな小僧! キャロルはその辺の尻の軽い娘とは違うわ!」
「ってーな! なにしやがるジジイ!」
店中に肉と骨が衝突する音が鳴り響く。テーブルは倒され、関係のない客のテーブルまで荒らされる散々な音が聞こえてくる。
酔った男性は小さく悲鳴を上げながらトーマスに殴りかかっていた。反対に、トーマスは無言で反撃しているようだった。相手が攻撃的でも動じないのは、長年傭兵をやっていた賜《たまもの》といったところか。
「いい加減にしろ爺さん!」
「外で頭冷やしてこい!」
「なにをする⁉︎ 放せ! 放さんか!」
彼は数人に身体を拘束された。抵抗しているようだが、いくら喧嘩慣れしているとはいえ複数人の拘束から逃れるのは困難なようで、引き摺《ず》られ、トーマスは寒空の下に放り出された。
無常にもドアは彼の叫びを断つように閉められ、店には彼が暴れた痕跡だけが残された。
なんて日なのかしらと文句を言いながら、店員はタバティエールのことなど忘れたように床に散らばった割れたグラスや皿を片付け始めた。店主も掃除道具を取りに行ったのか、バックヤードに消えた。注文は一時ストップのようだ。
「キャロルちゃん帰ってないのか」
「みたいだな。仕事が長引いている、だといいんだが……」
「少し心配ですな……」
どうしても頭を過ぎってしまうのはヴァンパイアによる誘拐事件。この街に住んでいる限り被害に遭う可能性は否定できない。キャロルほどの年齢の女性なら尚更だ。商売人の目から見たらさぞやいい商品に映るだろう。
無事であってくれ。ヴァンパイアと関わらないと約束した手前、そう祈ることしか出来なかった。
「なあ、やっぱり昼間のあれ、そうだったんだよ……」
「だとしたらあの子も駄目だな。ヴァンパイアに捕まっちまったら帰ってこられねぇからな」
「俺が、俺たちがあそこで助けてたら……」
「無理だろ。相手が悪すぎる。助けに入ったところで返り討ちに遭うだけだ」
「そうなんだけどよ……くそっ! なんで世界帝軍なんかと……!」
「お前ら声がでかいぞ。聞かれたらどうする」
近くのテーブルから聞こえてきた会話。店のざわめきに紛れていたが、レオポルトの耳にははっきりとその会話が届いていた。
レオポルトは静かに立ち上がった。
「よせ! レオポルト!」
同じく会話を聞いていたキンベエが制するが、レオポルトはそれを聞き入れず、男たちのテーブルに近付いた。
「今のお話し、詳しくお聞かせ願えませんか?」
丁寧に、穏やかに、レオポルトは男たちに言った。
「なんだテメェ……」
「話? なんのことだ?」
「つい今し方お話になっていたことです。ヴァンパイアがどうとか」
「知らねぇな。酒が不味くなるから失せろ」
男の一人が犬を追い返すように手を払った。
レオポルトは髭を撫で、少し考えてから男たちのテーブルから離れた。
そして向かったのは自分のテーブル……ではなく、無人となったバーカウンターだった。彼は店主の許可を得ず勝手にカウンターの中に入ると、棚に並べられたボトルの内の一つを手に取り、それを持ったまま男たちのテーブルに戻った。
レオポルトは怪訝そうな表情の男たちの前でボトルを開けると、空になっていたグラスに酒を注いだ。
「これは私の奢りです。どうぞ、遠慮は無用です」
「……なんの真似だ」
「はは、ただお話しを聞きたいだけですよ」
「話すことなんか何もねぇよ。おい、帰るぞ」
注がれた酒を一気に飲み干すと、口の悪い男と、彼の隣りに座っていた男は店から出て行った。
テーブルには少し肥えた体格の男だけが残った。彼はグラスに残っていた酒を飲んで空にすると、レオポルトの様子を窺いながら席を立とうとした。
それを妨害するように、レオポルトは空になったばかりのグラスに酒を注いだ。揺れる酒の表面に、冷や汗を浮かべた男の顔が映る。
「話を、聞かせていただけますか?」
尋ねると、男は「あ、あ……」と視線を泳がせた。
「もうよさんか、レオポルト!」
意地でもキャロルの行方を聞き出そうとする彼の肩を掴み、キンベエが止めに入る。しかしレオポルトは全く動じることなく、淡々と男に話しかけ続けた。
「実は、ミス・キャロルに大変お世話になっておりまして、明日にでも是非お礼をと思っていたのですが……先ほどの騒ぎの後にあなた方の会話が聞こえてきたもので、いてもたってもいられず。驚かせてしまい申し訳ありません」
「あ……いや……」
「それで、ミス・キャロルが今どこにいるのかご存知で?」
「それ、は……」
男は震えていた。あらゆる恐怖が彼を襲っているのだろう。
「駄目、だ……駄目だ……殺される……殺される殺される殺される……」
男は呟きながら、震える手でグラスを掴んだ。琥珀色の酒が小さな波を打つ。
それを、レオポルトは掌でグラスを押さえ付け、妨害した。男はその手からグラスを引き抜こうとしたが、レオポルトは許さなかった。
何も言わず、ただじっと見下ろすと、男は小さく悲鳴を上げてグラスから手を離した。
「いやだ……死にたくない死にたくない……」
「ご安心を。私はヴァンパイアの内通者ではありません」
怯えきっている彼に、耳打ちをする。
「ほ、本当か……?」
レオポルトは微笑み、頷いた。
まだ微かに温もりが残っている椅子に腰掛けると、男の背中を優しく擦った。大丈夫だと何度も告げ、彼の警戒心を解いていく。
「……見たんだ」
彼は言葉を喉から押し出した。
「昼間、キャロルちゃんが仕事場に行く途中……無理矢理、ヴァンパイアの車に乗せられた、ところを……あそこ、ひ、人通りの少ない場所で、た、たまたまそこで塗装の仕事をしてた俺、俺たちしかいなくて……見てたのに、助けられなくて……俺は、俺は……!」
目の前で連れ去られそうになっている彼女を助けられなかった後悔。たとえ赤の他人であっても、たとえヴァンパイアの脅威に晒されていても、一人でも不幸な女性を増やしたくないという気持ちは、この街の住人の中に残っているのだ。
「ありがとうございます」
レオポルトは礼を言い、立ち上がった。
いい酒だから全部飲んで構わないと、ボトルをテーブルに残して彼に背を向ける。
「俺は……俺は本当に、だ、大丈夫なのか……?」
「勿論。あなたの身の安全は保証しますよ」
振り向かず、約束した。ありがとう、と、男は安堵したように息を吐いた。
レオポルトはキンベエと共にタバティエールと青年が待つテーブルに戻った。
だが椅子には座らず、傍に立て掛けていた銃を掴むと、誰かが静止するよりも先に脱兎の如く店から姿を消した。
「レオポルト!」
思いもよらぬ行動に出たレオポルトを追うように、キンベエも銃を持って急ぎ店を出る。
空になった二人分の席。
事情が飲み込めず、呆然とそこを見つめる青年。
二人がどこに向かい、何をしようとしているのか。大体のことは見当がつく。青年もそれをわかっているのだろう。酒で赤くなっていた顔が一瞬で青白くなってしまった。
大きく予定が狂ってしまい、さてどうしたものかと考えを巡らせながらタバティエールは煙を吐いた。
考えた。考えたが、答えは一つしか出なかった。
「やっぱ、そうなるよな」
タバティエールは吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、銃を肩に掛けて二人を追った。