とある男たちのブルース2

『Chase Chase Chase』

 黒い空に浮かぶのは上弦の月と無数の星々。
 舗装された道を、月と星、街灯と建物から零れる明かり、あらゆる光が照らしている。
 明るければ明るいほど、不審な行動はよく目立つ。よって、極力明かりの少ない場所を通るようにし、三人は街中を走り回った。
 ただ走っているわけではない。捜しているのだ。大事な孫娘を捜し回っているであろう人物を。
 キャロル・フィッシャーはヴァンパイアと呼ばれているハーリー・ペインに誘拐された。街の者たちがハーリー同様トーマスのことも忌み嫌っているのなら、恐らくこの事実をトーマスは知らない。
 知らないだろうが、感づいてはいるだろう。年老いてもなお現役並みの洞察力を持っている彼が気づかないはずがない。
 もしもハーリーが犯人だと気づいたら、彼はキャロルを助けに単身で敵地に乗り込むに違いない。武器も持たず、身一つで彼らと戦おうとするだろう。
 しかしそんなことをしたら彼は無事では済まない。戦いの心得があったとしても、圧倒的な戦力差で膝を折ることになりかねない。そうなってしまったら、彼が生きてキャロルと再会するのは絶望的になる。ハーリーに逆らった罪で殺されるか、彼を苦しめるためにキャロルを殺すか、あるいは二人とも殺すか。選択肢は三つしかない。
 だから一刻も早く彼を見つけなければならない。彼がハーリーと接触する前に。最悪の事態が起きる前に——
 いくら捜してもトーマスの姿はどこにもなかった。道を行く者や、道沿いの飲食店でトーマスの行方を尋ねると、確かに彼はこの道を通ったようなのだが、傭兵を引退しても筋力は衰えていないのか、一向に追いつく気配がなかった。
 最後の目撃場所を通り過ぎたところでレオポルトは一度足を止め、荒くなった息を整えた。昨日は冷たかったはずの風が、今夜はなんだか生暖かく感じる。
「レオポルト!」
 別の道でトーマスを捜していたキンベエが車道を横断してレオポルトのもとに駆け寄った。
「いたか?」
「いえ、こちらには。キンベエ殿はいかがでしたか?」
「駄目だ、どこにもおらん。一体どこに行ったんだあのご老体は」
 キンベエが捜していた場所でもトーマスは見つからなかったようで、二人は肩を落とした。
「考えたくありませんが、もう既にという可能性も」
「どうだろうな。あのご老体のことだ、そう易々と捕まるとも思えんが」
「……そうですね、もう少し遠くの方まで捜してみましょう」
 場所を変えようと話した矢先、見回りを行っている世界帝軍兵士の姿を目視した二人は、暗い小道を使って捜索を続けた。
 兵士の目をかいくぐりながら元傭兵の老人を捜す。これは今までやってきたどの任務よりも難しい気がしてならない。老人を追うことに集中すると兵士に見つかり、かといって兵士に気を取られているといつまで経っても老人には追いつけない。体力、神経共にすり減らされ、本音を言えば今すぐ投げ出したいくらいだ。
 それができないのは、きっと自分たちが——
「キンベエさん! レオポルトさん!」
 呼びかけられ、二人は足を止めた。振り返ると、息を切らしているタバティエールがいた。
「ご老体は? そっちにいたか?」
「いえ、こっちには……ったく、困った爺さんだ」
 タバティエールは顔に流れる汗を拭った。
「実は、すれ違いでキャロルちゃんが戻ってるんじゃないかと思って、爺さんの家に行ってみたんですよ」
「そうか、その可能性も……で、彼女は戻っていたのか?」
「家はもぬけの殻でした。鍵が開いてたんで一応家の中も一通り捜してはみたんですけど、キャロルちゃんも爺さんもいませんでした」
「鍵をかけずに出てくるとは……」
「それだけ切羽詰まってたってことでしょうね。明かりも点いたままでしたから」
 大事な家族が突然いなくなったら人は冷静さを失う。判断力も注意力も失われ、必死に家族を捜すだけの人間となる。戦場暮らしが長い傭兵でもそれは例外ではなかったようだ。
「どうします? このまま一晩中捜し続けるってわけにもいかないですし」
「そうだね……」
 レオポルトは懐中時計を取り出し、時間を確認した。
 現在時刻は八時半。ここから更に進むと、余計出歩くだけで怪しまれる時間となってしまう。
「九時半までだな。それを過ぎたらもう諦めるしかない」
 タイムリミットは一時間。彼らには申し訳ないが、区切りをつけないわけにはいかない。いつまでも追いかけっこをしていられるほど時間も心も余裕はないのだ。
 この一時間に懸けるしかない。
「行くぞ」
 三人は小道を使い、各々まだ捜していない場所に向かった。
 走り、走り、止まり、また走る。見回りの目を盗み、暗がりに身を潜めながら。走る。ひたすら。走る。トーマスの姿を追って。
 走る。
 走る。
 走る。
「っ!」
 ぽつりぽつりと等間隔に立っている街灯の下。蹲《うずくま》る人のような影を見つけ、キンベエは走るのを止めた。
 ゆっくり、警戒しながら人影に近付く。トーマスである確証はない。路上で寝ている浮浪者や、ただの酔っ払いの可能性もある。けれど念のため確認する必要はある。街灯の下に立ち、キンベエは倒れているその人物を見た。
「トーマス殿!」
 白髭の老人。倒れていたのは紛れもなくトーマスだった。キンベエは彼の頬を軽く叩き、何度も呼びかけるが、彼はなんの反応も示さなかった。
 息はある。心臓も動いている。気絶しているだけだ。
 彼は頭から血を流していた。気を失った原因は頭を強打したからだろう。道で転んで頭を打ったのか、先のように喧嘩をして殴打されたのかは現場を見るだけでは判断できない。
 キンベエはトーマスを肩に担いだ。立ち上がった瞬間、彼の重みで筋肉が軋む。やはり傭兵を辞めても己を鍛えることは止めなかったようだ。
「まったく、元気なご老体だ」
 呆れてぼやくが、同時に、老いてなお盛んな彼を羨ましく思った。
 
 
 大事に至る前にトーマスを見つけることができた三人は、すぐに彼の家に向かった。
 勝手に上がり、勝手に傷の手当てをし、勝手に彼が目覚めるのを待つ。自分たちが最善と考えたから勝手に行動した。勝手なことをした故に様々な責任が生じるかもしれないが、傷ついた彼を見捨てるほどの冷酷さを持ち合わせていなかったのだ。
「う……あ……」
 トーマスの厚い瞼がゆっくり開いた。虚ろな目で天井を見つめ、小さく唸る。
「よかった。気がついたか」
「……ここは?」
「爺さんの家だぜ。状態が状態だったからな、勝手に上がらせてもらった」
「……こいつは?」
 彼は頭に巻かれている包帯に触れた。
「怪我をされておりましたので手当を。ここに運んできた時には既に血は止まっておりましたので大丈夫かとは思いますが、念のため明日にでも病院で診ていただいた方がよろしいかと」
「そうか……」
 彼は力なく呟いた。
「一体何があったのだトーマス殿。道で倒れているのを見つけた時は冷やっとしたぞ」
「倒れていた……? ああ、そうだったな……」
 ぽつりぽつりと、彼はあの場にいた経緯を話した。
 バーを追い出された後も、トーマスはキャロルを捜しに街を駆け回っていた。どこに行っても、誰に尋ねても相手にされず、苛立ちが募るばかりだった。
 考えたくはなかった。だが時間が経つほど考えは悪い方に動いた。探しに出てから二時間が過ぎた頃、最も考えたくなかった可能性が脳裏を過ぎってしまった。
 もしかしたらヴァンパイアに攫われたのではないかと。
 藁にも縋る思いでトーマスは、街の見回りをしている世界帝軍兵士にキャロルの行方を訊いた。当たり前だが彼らがまともに取り合うはずもなく、トーマスは邪険に扱われた。それでもトーマスは諦めず兵士に詰め寄り、問いただした。
 その態度が気に食わなかったのだろう。トーマスは兵士に頭を殴打された。あの程度の力で怯むことなど普段はあり得なかったが、興奮していたことも相まって気を失ったのだ。
 話し終えると、トーマスはベッドから身体を起こした。
「トーマス殿、あまり無理は——」
「あの子を捜さんと……あの子はヴァンパイア……ハーリー・ペインのところかもしれん」
 『かもしれない』は紛れもなく事実なのだが、なんと説明するべきか。三人は顔を見合わせた。
「あんたの予感は当たってるぜ爺さん」
「なに……?」
「ミスタ・トーマス。落ち着いて聞いていただきたい。ミス・キャロルは今、ハーリー・ペインのもとにいます」
 弾の如き速さで突き出された手が、レオポルトの胸倉を掴んだ。
「何故知っておる?」
「バーにいた目撃者から伺いました」
「嘘ではないな?」
「間違いなく真実でしょう」
 臆する様子もなく、レオポルトは答えた。
 レオポルトが嘘をついていないと判断したのか、トーマスは彼から手を離した。
「ハーリー……あの傲慢ちきの小僧め……」
 固く握られた拳が震えていた。怒りと屈辱が彼の中に渦巻いているのが、その拳から伝わってくる。
「……絶対に許さん!」
 言い放った直後、今まで感じたことのない黒い殺気が三人の肌を掠めた。触れた箇所から全身に寒気が走る。昼間の時とは比にならない。目の前にいるのはただの引退老人ではなく、過酷な戦場を生き抜いてきた兵士だ。不死鳥の如く蘇った兵士に、三梃の銃たちは畏怖の念を抱いた。
 トーマスは毛布を跳ね除けると、突然クローゼットを開けた。中には服が何着か掛かっているが、彼はそれらをまとめて掴んでは床に投げ捨てていった。とうとう怒りで気が狂ったのかと思ったがそうではなく、彼はすっかり空になったクローゼットの奥に手を伸ばした。
 クローゼットの奥に薄い板が嵌められていた。彼は隙間に指を入れて、慣れた手つきでそれをはずした。
「爺さん、あんたそれは……」
 板に隠されていた物を目にした三人は息を飲んだ。
 銃だ。それも近年の物ではない。撃鉄の形から推測しておよそ一世紀前。タバティエールとほぼ同じ時代に作られた銃だろう。
「そいつは爺さんの銃なのか?」
「馬鹿を言うな。こんな玩具でまともに戦争ができるわけないだろ」
 トーマスは撃鉄、引き金、そして引き金付近に取り付けられているレバーが正常に動作するか確認しながら答えた。自分の銃ではないと言っているわりに、その手つきは慣れたものであった。
 一連の動きに問題がないことを確認すると、今度はクローゼットから円筒形の何かを取り出した。黒革のそれを開けると、中には金属製の棒状の物が十数本入っていた。その内の一本を引き抜いた彼は、銃床からまた金属の棒を抜き出し、ぽっかり空いた銃床の穴に先ほど円柱形の何かから抜いた棒の中身を入れた。
 棒の中に詰められていたのは金属製の弾丸だった。いくつもの弾丸が吸い込まれるように銃床の穴に落ちていく。全て入れ終わると、彼は空になった不要な棒を床に放った。
 銃床から抜いた棒で再び穴を塞ぎ、固定する。これで彼はいつでも銃が撃てる状態となった。
「こいつは……儂の倅の銃だ」
 トーマスは銃を強く握った。
「馬鹿な奴だ。こんな銃でどう戦うつもりだったんだ……」
 世界帝軍の傭兵だった父と、古式銃を所持していた息子。何故武器の所有が許されていない状況下でありながら彼が銃を隠し持っていたのか疑問だったが、彼のこの一言で、すぐに解消された。
 トーマスは黒革の弾薬筒のバンドを肩から掛けると、銃を担いで部屋から出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待て爺さん!」
 見事な手さばきについ魅入ってしまった三人だったが、はっと我に返って、襲撃の準備を終えて出て行こうとした彼を慌てて止めた。キンベエが羽交い締めにして動きを封じ、レオポルトとタバティエールが出口の前に立って行く手を阻む。
「放せ! 貴様らも儂の邪魔をするのか⁉︎」
「落ち着けって爺さん。こっちは別に邪魔をしようってわけじゃねえんだよ」
「だったらさっさとそこを退け小童ども! 撃ち殺されたいか⁉︎」
「トーマス殿、少し冷静になって私たちの話を聞いてくださいませんか?」
「話⁉ 話だと……?︎」
 息を荒げながらも、トーマスは一時抵抗するのを止めた。
「よいですか、ハーリー・ペインの邸には彼に雇われた世界帝軍の兵士がおります。そして彼の邸に向かう途中にも」
「だからなんだという。あんな雑兵ども儂の敵ではない」
「以前なら、そうだったのかもしれません。ですが、よく見てください。あなたが持っている物は一体なんですか?」
 指摘されたトーマスは、今、己が手に持っている物に目を向けた。
「『こんな銃でどう戦うつもりだったんだ』あなたはつい先ほどそう仰ったではありませんか。あなたが優れた兵士であったことは初対面である我々にもよくわかります。ですが、個人の能力だけでは埋められない力の差というものがあるのです」
 たとえばかつてのレジスタンスのように。
「だが……儂はキャロルを……あの子だけは……」
 トーマスは強く唇を噛んだ。赤く細い血が、白い髭に絡まり落ちていく。
 かけがえのない人を助けたいという想い。彼の想いは痛いほど三人にもわかっていた。それは彼らの中にも常にある想いだからだ。
 命を削って自分を貴銃士にしてくれた唯一の人。マスターを守り、マスターのために戦うのが貴銃士に課せられた使命だ。それぞれ彼女への想いや、己の信念は違えど、根底は変わらない。そうでなければ、そもそも彼女の貴銃士になっていない。
「ミスタ・トーマス。我々も協力いたします」
 レオポルトは彼に手を差し出した。
 自分たちはマスターの貴銃士だ。
 だから、これは間違っていない。
「戦力は少しでも多い方がいいだろ? まあ、殆ど爺さん一人でなんとかなっちまいそうな気はするけどな」
「なにを……お前たちは……」
 共闘の申し出に驚き、トーマスは目を見開いた。
「なに、心配するな。世界帝軍の相手なら慣れておるからのお」
 キンベエはカッと笑い、羽交い締めにしていた腕を下ろして彼から離れた。
「さあ、一緒に助けに行きましょう」
 三人は銃袋の紐を解き、収められていた物を彼に見せることで戦う意志があることを示した。
 こちらは古銃が四挺。対して敵は最新鋭の武器を持った多勢。圧倒的にこちらが不利だ。
 だが、ここにいるのは貴銃士と、数多の戦場を駆けた元傭兵。勝つことは不可能ではない。
「お前さんらは、一体何者だ……?」
 トーマスが尋ねた。
「ただの通りすがりのお節介ですよ」
 彼の手を取り、レオポルトは答えた。

「少し、この老いぼれの話を聞いてくれんか」
 そう前置きし、ハーリーの邸に向かう道中でトーマスが語り始めたのは、遠い日の昔話だった。
 トーマスは生まれた時から両親がいなかった。生まれた当初はいたのだろうが、生後間もなく孤児院の前に捨てられた彼にはそれを確かめる術はなかった。
 彼が生まれた国は戦争をしていた。大きい争いもあれば、小さい争いもあった。何年も何年も絶え間なく争いを続けていた。
 気がつけば、彼は兵士になっていた。この国で生まれた男子は兵士になることが義務づけられていると言われ、彼は同い年の少年たちと共に軍に入隊した。そういうものだと教えられたので、彼も他の少年たちも戦いたくないと駄々をこねることはなかった。
 入隊してから教わったのはトレーニング法や銃、爆弾の扱い方、暗号の意味や最低限の読み書きなど戦いに必要なことだけだった。それ以外のことは学ばなかった。人が人として生きていくために家族から教わる大切なことは、何一つ教えてくれなかった。戦争の目的や意味さえも。少年たちは皆、戦争で消費される武器の一種として人格が作られていった。
 誰も笑わなかった。誰も泣いていなかった。怒る者も、現状に嘆く者もいなかった。トーマスたちの育成を任されてる上官だけが時に笑い、時に激怒した。
 初めて戦場に立ったのは十二歳の時だった。敵地の駐屯地を襲撃する作戦に参加することになったのだ。他の少年兵たちと一緒に、トーマスは戦場を駆け回った。
 初陣は勝利で終わった。だが共に戦った者の半数が命を落とした。
 悲しくはなかった。自分は武器であったから、流す涙などなかった。
 戦いの後、生き残った少年兵たちは敵兵の所持品を全て回収するよう命じられた。武器は勿論、身に付けている物も全部奪い取った。
 当時、少年兵の間であることが流行していた。それは敵兵のドッグタグに彫られている名前を自分の名前にすることだった。孤児院出身の者は名前がなかったので、戦場でドッグタグを見つけることが戦う目的の一つになっていた。
 ある兵士の所持品を回収している時、トーマスは兵士の首にドッグタグが下がっていることに気がついた。彼はチェーンを引き千切った。
 輝く銀色のプレートには兵士の名前が刻まれていた。
『トーマス・フィッシャー』
 他の孤児同様名前がなかった彼は、この時からトーマス・フィッシャーと名乗ることにした。
 それからもトーマスは幾度も戦場に出た。武器として、武器らしく敵を殺した。
 そんな彼に転機が訪れたのは十四歳の時だった。
 敵の野営地の奇襲作戦に参加していた彼は、いつものように殺し、いつものように帰るつもりだった。だが野営をしていた敵兵は強く、作戦部隊は撤退を余儀なくされたのだ。
 本来はトーマスも仲間と撤退するはずだった。しかしできなかった。敵の銃弾により重症を負ってしまったのだ。自力で立って歩くこともできず、トーマスは逃げる仲間の後ろ姿を睨みながら意識を失った。
 目が覚めた時、彼は敵兵の野営地にいた。とっくに死んだと思っていたが、不思議なことにトーマスはまだ生きていた。それも、敵兵が施した延命処置によって。
 助けてくれたのは傭兵だった。リーダーを務めている男は、トーマスに言った。仲間にならないかと。
 戦うことしか知らないトーマスは彼の誘いを受け入れた。誰のために、何のために戦っているのか理解していなかったので、戦えるのなら何でもよかったのだ。
 そしてトーマスは傭兵になった。かつての仲間たちは皆、殺す相手に変わった。
 傭兵になってからトーマスは様々なことを学んだ。大声で笑うこと。怒鳴りあって喧嘩をすること。女性の扱い方や酒の味と楽しみ方。武器だった彼は、傭兵たちと過ごす中で少しずつ人になった。ただ一つ、悲しみという感情だけ知らないまま。
 戦争が終わった。どこが勝って、どこが敗れたのかは知らない。ただ、終わったという事実だけ伝えられた。
 戦争がなくなれば傭兵も必要なくなる。武器を放棄すると同時に、傭兵団は解散した。
 その後は暫く、リーダーの手を借りながら〈普通の生活〉を送った。普通の仕事をし、普通の物を食べ、普通に女性を愛し、家族になった。
 子供が生まれた。妻に似た男の子だった。
 家族のため、トーマスは懸命に普通の生活を続けようとした。だができなかった。
 旧友が訪ねて来た。彼はトーマスにもう一度戦わないかと言った。
 敵は誰なのか尋ねた。彼は反抗勢力と答えた。
 何のために戦うのかと尋ねた。彼は世界帝のためと答えた。
 提示された報酬額は今の仕事の倍以上あった。家族にいい暮らしをさせてやれると言われ、トーマスは再びその手に銃を持つ道を選んだ。
 妻には反対された。危険だからやめてくれと。でも本当はこう言いたかったのだろう。世界帝に手を貸すような真似はしないでくれと。
 雇い主は誰でもよかった。重要なのは戦う場と報酬を得られるかだった。
 今の生活も悪くない。家族と穏やかに暮らし、友人と酒を飲み交わす、そんな当たり前の日常。普通の人間ならこれで満足だろう。
 物足りなかった。悪くはないが、何かが自分の中から抜け落ちている気がしていた。
 旧友が訪ねて来たことで、トーマスはかつての自分が何者で、何をするために生まれてきたのかを自覚した。
 妻の反対を押し切り、トーマスは一人新たな戦場に向かった。自分が最も生を実感できる場所へ。
 新たに与えられた戦場でトーマスはレジスタンスと戦った。いや、明らかに戦力はこちらの方が上で、戦争とは名ばかりの一方的な虐殺だった。トーマスはそれを淡々とこなしていった。成果を出すと雇い主である旧友の評価が上がるらしく、彼は大いに喜んだ。対して、別段トーマスは何も感じなかった。
 長く家を空けていたので、休暇をもらって一度自宅に戻った。
 子供はいつの間にか成人しており、自分の家族を持っていた。帰ってきたトーマスに、彼は開口一番にこう告げた。
 母さんは死んだ、と。
 病気だった。町医者では治療できないものだった。大きな病院に入院し、治療を受ければ治る可能性があったらしいが、彼女はそれをしなかった。
 家にはトーマスが送った多額の金があった。だが彼女はそれに一切手をつけていなかったらしい。人の命と引き換えに得た金など使えないと、最期まで拒んだらしい。
 妻を失って初めて味わった喪失感。そして知ることとなった。ああ、これが悲しみなのだと。
 息子からは二度と顔を見せないでくれと言われた。トーマスが真っ当な道を選択すれば母親は死ななかったと憤激した。
 トーマスは反論した。誰のために危険を冒して金を稼いでいると思っているのか、と。そして遂には殴り合いの喧嘩に発展した。
 その最中で、トーマスは手近にあったペティナイフで息子の手を貫いた。
 彼の手から見飽きたはずの血が流れた瞬間、自分の中で何かが大きく壊れる音がした。
 この日を境に、トーマスは二度と息子の前に姿を見せなかった。
 そして十一年前。トーマスは臨時に設けられた駐屯基地での作戦参加を命じられた。レジスタンスが駐屯基地に侵攻したら、各所に設置しているボンベを撃て、という命令だった。特に理由も訊かず、言われるがまま戦地へ赴いた。
 世界帝軍のシンボルとも言えるガスマスクを装着し、四方を見渡せる物見台からレジスタンスを待った。そして彼らが基地に入ると、作戦通りボンベを撃ち抜いていった。
 ボンベを破壊すると、中から毒ガスが噴出した。レジスタンスは苦しみ踠《もが》き、倒れていった。この場から逃げ出そうとした者は駐屯基地を取り囲んでいる兵士によって殺された。全滅するまでそう時間はかからなかった。
 作戦後、死体は一箇所に集められた。トーマスは兵士たちが〈それ〉らを回収する様を眺めていた。
 ふと、トーマスはある死体の前で足を止めた。
 気づかなければ。さっさと帰っていればと、この時ほど思ったことはない。
 苦悶の表情で事切れている男。その顔は見覚えのあるものだった。
 まさかと思い、トーマスは男の手を見た。男の手には傷痕があった。掌と甲の同じ箇所。貫通しなければできないような傷。
 男の正体がわかった瞬間、トーマスはその場で膝から崩れ落ちた。
 男は古銃を肩に掛けていた。昔アメリカで作られた七連発式のレバーアクション銃だった。他の者が持っているフリントロック銃に比べれば使い物になるが、それでも最新鋭の銃の前では子供の玩具のような物であった。
 トーマスは銃を持ち帰り、部品を一部破壊して使えなくすることを条件に報酬として貰えないか交渉した。作戦が成功して上機嫌だった旧友は二つ返事で応じてくれた。
 この作戦を最後に、トーマスは傭兵を引退した。自分の息子を自らの手で殺してしまったからではない。作戦後に秘密裏に届けられた、息子の嫁からの手紙がその理由だった。
 手紙にはこう綴られていた。夫が死んだことで身元が割れ、家族である自分たちの命も危うくなるだろう。自分は夫の意志を継いで戦うつもりである。しかし、そんな親の復讐劇に子供を巻き込むわけにはいかない。一人娘のキャロルだけは逃がしたいから協力してほしい。他に頼れる者がいないので、敵であり、唯一の血縁者であるトーマスに頼るしかなかった。面倒なことを押し付けるようで申し訳ないと思っているが、彼女だけは守ってほしい。余計な正義感でレジスタンスとなった愚かな息子の嫁に相応しい、実に身勝手な内容だった。読み終えると、トーマスは手紙をすぐに燃やして処分した。
 悩む時間はなかった。いや、悩む必要はなかった。
 これは妻と息子、そして自分が裏切ったかつての仲間たちが自分に残してくれた最後の贖罪の機会だ。人に戻れる唯一残された道だ。武器として生涯を終えるか、自分が犯した罪と後悔を一生の枷とし、一人の人間のために残りの命を燃やすか。目の前の用意された先の見えない二つの道。どちらを選んだとしても過酷な道であることに変わりはない。
 ならば、選ぶ道は決まっている。
 トーマスは旧友に老いを理由に戦場から退くことを告げた。目が悪くなり、手も震えていると嘘をついた。彼はそれを信じ、軍の内部情報を一切口外しないという誓約書と引き替えにトーマスに自由を与えた。
 金と息子の形見である銃を持って、トーマスはキャロルを迎えに行った。既に嫁が『街に悪い人が来るからお爺ちゃんと逃げなさい』と言っていたこともあり、連れ出すのは簡単だった。
 そして長旅を経て辿り着いたこの街で暮らすようになった。
 武器だった男は、孫と暮らすことでやっと人間になれたのである。

「キャロルちゃんの母親は今どうしてるんだ?」
「さあな。場所は伝えておるから生きていたら迎えに来るだろ。来ないということは、そういうことなんだろうな」
 三年前、世界帝軍によるレジスタンスの大規模粛正が行われた。これによりレジスタンスが壊滅状態となったことを考えると、キャロルの母親も無事では済まなかったのだろう。
「ご両親が亡くなられたことを彼女はご存知で?」
「レジスタンスの暴動に巻き込まれて死んだと伝えた」
「なんか引っかかる言い方だな」
 両親が死んだのは世界帝軍と戦ったからだ。『世界帝軍とレジスタンスの戦いに巻き込まれた』と言った方が自然だろう。彼の言い方ではレジスタンスだけが悪いと捉えられてしまう。
「いいんだこれで。こう言っておけば、あの子がレジスタンスに興味を持つことも関わることもない。勿論世界帝軍にもな。あの子には血の臭いを覚えさせたくない」
 キャロルを戦いから遠ざけるために、彼なりに考えた嘘。まあそういうことならと、三人は言及しなかった。
「だから彼女はあんなことをわしらに訊いたのか」
「キャロルがお前さんらに何か言ったのか?」
 キンベエはキャロルからされた質問について話をした。
「で、なんて答えたんだ?」
「なにも。答えたところで彼女が納得するとも思えませんでしたので」
「それでいい。知らん方がいいことだってある」
 自分のことのようにトーマスは言った。
「でも、いつまでも嘘を突き通すわけにもいかないんじゃないか? あの子が大人になった時、あんたの知らないところで両親のことを調べるかもしれない。それで真実を知ったら、あんたはどう説明するつもりなんだ?」
「ありのままを話すしかないだろうな。両親は儂が殺したと、な」
「……憎まれる覚悟はできている、ということですか?」
「そんなもの、あの子を引き取ると決めた時からとうにできていたわい」
「殺される可能性も否定できないぜ」
「あの子に殺されるなら本望だ。儂の命はもう、あの子のものだからな」
 トーマスは星が瞬く夜空を見上げた。人は死ぬと星の一つになるとマスターが言っていた。彼は愛する者の手で星となり、永遠に愛する者を見守り続けることを望んでいるのかもしれない。
「わしらと似ているな。いや、同じと言った方が正しいか」
「同じ?」
「境遇が似ているということだ。わしらもかつては人に使われる武器だった。だがある人に出会ってからわしらは人として戦えるようになった」
「あの人の助けになりたい。あの人の笑顔を守りたい。そう願い、私たちは戦っています。今の、あなたのように」
「仲間の中にはちょっと変わった奴もいてな。爺さんみたいにあの人の手で最期を迎えたいって奴もいる。改めて考えると、ほんと変わらねえな俺らと爺さんは」
 武器として生きることを定められた男と、武器として生まれた男たち。
 自ら選択して人になることを選んだ男と、導かれて人の身を得た男たち。
 多少の違いはあれど、男たちは同じだった。
 あれほど関わりたくないと思っていた彼のことを、三人は今、同じ志を持って戦う仲間だと心から思っている。
 身の上話を聞いて同情したからではない。彼の中に絶対に譲れないもの。揺るがない強い意志。高貴な輝きが彼の中にあったからだ。三人の心を動かすほどの強い輝きが……
「お前さんらを変えた人物は、お前さんらを武器として扱わんのか?」
「一度もありません。私たちのことを人として接してくれます」
「お前さんらを傷つけることは?」
「それもないな。寧ろわしらのせいで傷つけてしまうことの方が多いかもしれんな。沢山迷惑をかけた分、傍で守ってやりたいと思っている」
「守ることでお前さんらが傷ついても構わんということか?」
「爺さんと一緒さ。守って傷つくなら本望だ」
 三人が答えると、トーマスはふっと笑った。その表情は酒を飲みながら自慢話をしている時とも、キャロルに向けられるものとも違う。戦友にだけ見せる、屈託のない笑顔だった。
「そうか、なら最期の時まで大事にせい。絶対に儂のようにはなるなよ」
 そう言って、トーマスは歩みを止めた。
 大通りに続く小道に潜み、辺りを見渡す。周囲に兵士がいないことを確認すると、四人は邸のが目視可能な位置まで徐々に近付き、また小道に隠れた。
「で、どうやって邸に入る? まさか正面突破とは言わんだろうな」
「そんなことしたら市街戦になりますよ。できればあの馬鹿でかい敷地内で粛々と事を収めたいところなんですがね」
 邸は大通りの先、丁字路に面した場所にあった。面していると言っても実際あるのは豪奢な門であり、邸そのものは更に奥に佇んでいる。
 今のところ確認できる侵入経路は正門だけなのだが、そこから入ろうとするとタバティエールが危惧するように敷地の外で撃ち合うことになる。入念に計画され、既に周辺住民が全員避難できている状態なら兎も角、突発的な襲撃となると無関係な人間を巻き込む危険性が非常に高いのである。被害は最小限に抑えておきたいので、別の手を考えなければならない。
「トーマス殿は以前行われた救出作戦がどのようなものだったかご存知ですか?」
「少しだけならな。だがあれはよくない。儂なら別の方法で邸に乗り込む」
「ほう、それはどのような」
 トーマスは路地に転がっている小石を並べた。比較的大きな石を置き、それを取り囲むように小石を並べていく。簡略化された邸の全体図だ。
「いいか、ここが正面の門だ。前の作戦ではここに人を集中させ、こっちの裏門から別働隊が敷地内に侵入した。失敗したがな」
 彼は裏門を指差した。
「裏から侵入するのは悪くない。だが問題はその後だ。侵入に成功しても兵士に見つかったら終いだ。正面から突入するのとなんも変わらん」
 彼は新たに小石を四つ用意した。
「まずは二手に分かれる。片方は裏門から敷地内に侵入、もう一方はここで待機だ」
「いや、待ってくれトーマス殿。それだと前の作戦とかわらんぞ」
「話は最後まで聞け若造。いいか、まず裏門から入った二人で邸の外にいる奴らを引きつけろ。ただ引きつけるだけじゃ駄目だ。ある場所まで誘導しろ。兵を誘導できたら次は外で待機している者が高所から兵を撃つ。中と外で兵を全滅させたら正面の門を開けて合流だ」
「『合流だ』じゃねえよ。無理だろこんな作戦」
「何を言っておる。これ以上の現実的で効率的な作戦が他にあるものか」
「そうかもしれませんが、囮役が些か危険な気が……」
「不抜けたことを言うな。危険を承知でついてきたんだろ? だったら腹を括ったらどうだ」
 トーマスの提案は間違っているわけではない。敵を一カ所に集中させ、引きつけている間に別の部隊が敵を狙い撃つという作戦は現に戦場で使われるものだからだ。
 問題は人数だ。この作戦は引きつける部隊もそれなりの数がいて初めて成立する。しかしこちらは四人。三人まで囮に割くことができるが、それでは狙撃手が無防備になる。邸の兵だけではなく、街中で見回りを行っている兵まで集まった場合、誰かが狙撃手の援護に回らなければいけない。よって、必然的に二対二となる。たった二人だけでいまだ把握できていない人数を相手にするのは危険すぎるのだ。
「文句を言うなら他の案を提案してみろ。ほれ、ほれ」
 他の案と言われてもすぐには思いつかない。そもそも作戦とは敵や地形の情報を集めてから立てるものだ。敵の情報もわからない、地の利もない、という現状で最良の案を考え出すのは非常に難しいのである。
「……仕方ない。トーマス殿の案でいこう」
 諦めてキンベエが言うと、レオポルトとタバティエールも同意した。
「じゃあ役割を決めるか。まずは……狙撃手だな」
「儂だ」
 トーマスが真っ先に手を挙げた。
「儂がやる。儂以外できる者はおらんだろ」
 自信に満ちた表情で言った。
「おいおい、大丈夫か爺さん。こんな暗くて視界が悪いのに撃てるのか?」
 元狙撃手と言っても歳が歳だ。足腰が丈夫だとしても視力まで現役時代から変わっていないということはないだろう。多少衰えはあるはずだ。
「侮るなよ小童。儂を誰だと思っておる」
 どこかで聞いたことがあるような台詞だった。スナイパーというのは、皆こういう自信に溢れた性格なのだろうか。
「天才狙撃手トーマス様、だったな」
 わかっているじゃないかと、トーマスは鼻を鳴らした。
 狙撃手は決まった。次は誰が囮になるかだが、これはキンベエとタバティエールが引き受けることになった。トーマスの相手をまともにできるのはレオポルトしかいないという理由での人選だった。
 役割の次に決めるべきは敵を集める場所だった。無事侵入できたとしても、ここが曖昧になってしまうと作戦は失敗する。事前にここだと決めておきたいが、内部の構造がわからないので決めようがない。
「それなら心配いらん」
 またもや自信ありげにトーマスが言い切った。
 おもむろに立ち上がるなり、彼は靴を脱いだ。そして何をするつもりなのかと思った矢先、建物の外に剥き出しになっている排水管を上り始めた。手足でしっかり排水管を掴み、老躯とは思えないような早さで登っていく。
「何をしとる小童。お前も来んか!」
「えっ⁉︎ 俺も⁉︎」
 登ってこいと命じられ、タバティエールは声を裏返らせた。
「行ってこいタバティエール」
「怪我をしないように気をつけるんだよ」
「えぇ……」
 味方だと思っていた二人に背中を押され、タバティエールは渋々ブーツを脱いで排水管を登った。手足の指に力を込め、落ちないようじりじりと登る。
 建物の屋根まで登りきると、先に着いていたトーマスが下界を見下ろしていた。
「見てみろ。あれが欲望の限りを尽くした怪物の城だ」
 指差す先にあったのはハーリーの邸だった。
「ひゅー。凄えなこいつは。住んでんのはどこぞの王族か?」
 宮殿を思わせる大きな建物と、広い庭園。金持ちが道楽で作ったとしか考えられないそこは、かつてはこの地を治めていた貴族の別荘だったらしい。後にハーリーの父親が買い取り、邸宅としたそうだ。
「あそこだ。向かって左側の、悪趣味な石像がいくつも立ってる場所があるだろう。あそこに兵を集めろ」
 タバティエールは目を凝らして指定された場所を見た。石像があるらしいが、暗くて識別ができない。
「お前さんは若いのに目が悪いな」
「いや爺さんの目がよすぎるだけだからな」
 トーマスは衰えるという自然の摂理から離れた特殊な人間なのだろうか。あまりにもタバティエールが知っている標準的な老人と心身共にかけ離れている。
「いけそうか?」
「誰に質問しておるんだ小童」
「おっと、そうだったな。悪い悪い」
 愚問だったと、タバティエールは謝った。
「条件は悪いが、まあ問題ない」
「条件?」
 タバティエールは聞き返した。
「ここからの狙撃は、冬の十四時から十五時までの間が一番好条件だ。低い位置の太陽が儂の姿を隠してくれる」
「へえ。調べたのか?」
 トーマスはポケットから紙を取り出した。それはタバティエールたちが届けたメモ紙だった。
「こいつに何が書かれてるかわかるか?」
「街の住所だろ? それがど……って、爺さんまさか……」
 気づくと、トーマスはどうだと歯を見せて笑った。
「こいつに書かれてるのは、儂が調べた〈絶景ポイント〉だ」
「前からやる気満々だった、ってことか」
 恐れ入ったと、タバティエールは苦笑した。
 壊したはずの古銃を直していたり、現役時代と変わらず身体を鍛えていたり、襲撃に好都合な場所を調べていたり。引退とは口先だけで、彼はいつ何時何があっても動けるように日頃から備えていたようだ。これも全て、キャロルを守るためだろう。
「なあ爺さん。あんたもしかして、自分の意思で戦いに出たのはこれが初めてなんじゃないか?」
「なに?」
「あんたは今まで一度だって戦ってない。使われてただけだ。便利な道具としてな」
 タバティエールはキャロルが捕らわれているであろう邸を睨んだ。
「誰かのために命を懸けて立ち向かう。それが〈戦う〉ってことなんだよ」
 戦争に行くことが戦うことではない。ただ殺し合うのは戦いとは言わない。銃で撃ち合わない、殴り合いもしない戦いも存在する。時には自分自身と戦う時もある。
 絶対に譲れない、失いたくない唯一無二のものを守るために障害と対峙すること。〈戦う〉とはそういうことなのである。
「そうか、ならばこれが儂の最初で最後の戦争ということだな」
 タバティエールは頷き、吹き抜ける冷たい夜風に髪を遊ばせた。
 下で待つレオポルトとキンベエに邸の構造を伝えるため、二人は排水管を伝い降りた。
 タバティエールは先ほどの石を使ってどこに兵を集めるのかを説明した。裏門から目標地点まではそれほど距離はないので、上手く引きつければ無傷で第一段階は突破できるだろう。
「なあ、発砲音を聞き分けるってことはできるか?」
 耳が衰えていないことを前提にトーマスに尋ねた。
「さあな、発砲音の聞き分けなどやったことがないからわからん。何故そんなことを訊く」
「音を合図として使えないかと思ってな」
「合図? ああ、そうか。合図がないとわしらが侵入に成功したか否かがレオポルトたちにわからないんだな」
 合図でよく使っているのは懐中電灯であったり、反射物だったりするのだが、それでは狙撃手の位置が特定されてしまう。できるだけわかりやすく、一方的に伝えられる方法はないかと考えた結果、浮かんだのは銃の発砲音だった。
「ほう、なかなか面白いことを思いついたな。いいだろう。お前さんの銃を合図にすればいいんだな?」
「ああ。侵入に成功したら一発。引きつけに成功したらまた一発撃つ。二発目が聞こえたら、あんたの出番だ。やれそうか?」
「今と昔とでは音が違うからな。まあできんことはないだろう」
「頼んだぜ爺さん。キャロルちゃんの命も、俺らの命もあんたにかかってるんだ」
「わかっておるわ。お前こそしくじるなよ小童」
 二人は一緒に口の端を上げた。
 邸に突入するまでの動きは固まった。この難所を乗り切った後については、やることは一つなのでわざわざ作戦を立てるまでもなかった。
「念のため伝えておくが、わしらはあくまで手助けをするだけだ。ハーリー・ペインまでの道はわしらが作る。その先どうするかはトーマス殿が決めてくれ」
「奴の命は儂に委ねると?」
 キンベエは頷いた。
 協力はするが自分たちは部外者だ。直接ハーリーに手を下されたわけではないので、彼の生死を決定することに関しては道理がないのである。よって、彼の処遇はトーマスに一任するしかないのである。
「義理堅いな、若造のくせに」
「そういう国の生まれだからな」
 トーマスはハーリーにどのような形で罪を償わせるか考えておくと言った。
 キャロルが誘拐されてからだいぶ時間が経ってしまった。月は既に西に傾きつつある。姿を隠してくれる闇が消える前に、全てを終わらせなければならない。
「さあ、あなたの戦いを始めましょう、ミスタ・トーマス」

 レオポルト、トーマスを残し、タバティエールとキンベエは敷地をぐるりと取り囲んでいる背の高い石造りの塀に沿って裏門に向かった。敷地内の警備に重点を置いているのか、外には兵の姿はなく、二人は易々と近付くことができた。
「しっかし、こんな危険なことを相談もなくやったと知ったら、マスターちゃんも怒るでしょうね」
「その時はその時だ。男三人、仲良く雁首を揃えて謝るしかない」
 キンベエは大人三人が叱られている寒い光景を想像し、苦笑いを浮かべた。サカイやクニトモなどの若い貴銃士に情けない姿を見られたら何と言われるだろうか。
「それにしても意外でした」
「何がだ?」
「俺はてっきり、キンベエさんは最後まで反対するものと思ってたんですが。まさか一緒に無茶をやらかすとは」
「……そうだな、最初はそのつもりだった」
 レオポルトがバーから出て行った時、キンベエは彼を連れ戻すつもりで後を追った。追っていたはずだった。けれど不思議なもので、いつの間にか彼と一緒にトーマスを捜していた。任務に関係のない行動は控えるべきと頭ではわかっていたのだが、トーマスとキャロルを見捨てることができない自分がいたのだ。
「レオポルトに追いついた時、ふとマスターの顔が浮かんだんだ。そうしたらすっかり止める気が失せてしまってな」
「マスターちゃんが迷いを断ち切ってくれたと?」
「そうかもしれんな」
 もしもマスターがここにいたら、彼女はどうしただろうか。誰よりも優しくて、誰よりもお節介な彼女のことだから、トーマスとキャロルを助けようと言ったかもしれない。困っている人を見捨ててはいけないと。
 マスターだったら……と、考えた時、キンベエの中からおのずと見捨てるという選択肢が消えたのである。
「一晩の酒と一杯の紅茶の礼をしないといけなかったしな」
 キンベエは冗談半分に言った。
「お前さんはどうなんだ?」
「俺ですか?」
「他の若い貴銃士と違って、面倒ごとに進んで首を突っ込んだりせんだろう? だから珍しいと思ってな」
「俺は……まあ、似たようなもんですよ。一度乗った船からは岸に着くまで降りられない、みたいな。二人に何かあったら寝覚めが悪いですし」
 協力した理由はキンベエと変わらない。関わった人間の危機を見過ごすことができなかったのだ。
「それに、俺たちはやっぱり〈マスターちゃんの貴銃士〉なんですよ」
 貴銃士であるから、彼女が望むであろう道を選んでしまう。その選択が正しいと自分たちも信じているから。
「違いない」
 二人は軽く目配せし、曲がり角に差しかかったところで足を止めた。
 トーマスの話では裏門は角を曲がったすぐ先にあるらしい。陰から様子を窺うと、門の付近に兵士が控えているのが確認できた。表門と違い使用人の出入口としか使われていないからか、立っている兵士は一人だけだった。
「ここは俺が」
 タバティエールは銃を構え、サイト越しに兵士を捉えた。
 狙うは頭。撃てる弾は一発だけ。しくじると、後の行動に影響が出る。
「悪く思うな。恨むなら雇い主を恨んでくれ」
 呟き、鬨の声を夜闇に響かせた。
 兵士の身体が大きく揺れ、崩れ倒れる。二人は念のため慎重に接近し、兵士の生死を確認した。弾は狙い通り頭を貫通しており、呼吸は既に止まっていた。
「支部長さんのお陰だな」
 タバティエールは銃の調子を戻してくれた青年に感謝した。
 銃声が聞こえたことで、敷地内が騒めき始めた。
 もう後には戻れない。
 トーマスに出会わなければ。ヴァンパイアの話を聞かなければ。落としたメモを届けなれば。キャロルとバス停に向かわなければ。レジスタンスの青年からトーマスとハーリーの話を聞かなければ。バーでキャロルの行方を尋ねなければ。トーマスを追わなければ。トーマスを助けなければ。今頃、美しい星月夜の下で基地に戻ってからのことを考えながら眠りについていただろう。簡単な任務だったと、笑ってマスターのもとへ帰れたはずだ。
 幾度とあった逃げるチャンスを棒に振ったのは自分たちだ。己が選択した道を、敵の屍を踏み越えて進むしかない。
「やるぞ!」
 二人は覚悟を決め、敵地に踏み込んだ。
 役目は陽動。先までとは逆にわざと足音を立て、兵士の注意をこちらに向ける。本当は中央まで入り込んで誘導したいところだが、人数と位置が把握できていない現状では難しかった。背後の安全を確保する目的も含め、塀伝いに目標地点まで進みつつ敵を集めるしかない。
 兵士の一人が侵入者を発見したと叫んだ。それを皮切りに、複数の足音がぞくぞくと向かってくる。
 警告なしに放たれた銃弾が芝生を抉り、草が散った。はずしたわけではない。威嚇射撃だ。いつも戦場では威嚇なしに殺しに来るのに珍しいなと思ったが、じゃあ特別に止まってあげますよと優しくする理由もないので、二人は照らされるライトを素早く避けながら走った。
 艶めかしい女性の石像が無作為に置かれている庭園に着くと、二人は各々別の石像の後ろに身を隠した。
 タバティエールはトーマスが控えている方向を見上げた。ここからは見えないが、彼はもう建物の上でいつでも撃てる態勢となっているだろう。合図がくるのを今か今かと待っているはずだ。
 銃声が収まったところで、タバティエールは煙草に火をつけた。馴染みのある味と匂いが、高鳴る心臓を落ち着かせる。
「出番だぜ、爺さん」
 石像の陰から発射された二発目の弾丸が、無抵抗だと油断していた兵士の頭蓋を撃ち抜いた。
 放たれた弾は成功の合図と同時に開戦の号令となった。
 真横を掠める無数の弾丸。身を守ってくれる障害物が、精々身を屈めてやっと隠れる程度の石像の台座しかない状態ではあったが、二人は弾倉を入れ替える僅かな隙を狙って反撃した。
 装填し、狙いを定めて撃つまでに割ける時間は三秒もない。絶え間なく銃弾が飛んでくる限り、一秒でも身体を晒すのは危険極まりなかった。要求されるコンマ一秒の戦闘は、古銃には苦しいものなのである。
 台座の隅に銃身を乗せ、適当な兵士に照準を合わせる。急所を狙うことは考えていない。兎に角どこかに当たればそれでいい。一瞬でも動きが止まってさえくれれば、こちらの生存確率は格段に上がるのだ。
 息を止め、引き金を引く。
 よりも、刹那。
 標的が、倒れた。
 遠方から轟く一発の銃声。一瞬の間を置いて、二発、三発と鳴り響き、二人、三人と兵士が倒れていった。
 どこから撃ってきているのかと兵士たちが狼狽し始める。突然の出来事に意識が見えない襲撃者に移り、敵の発砲音が僅かに静かになった。
 この機を逃すまいと、二人も兵士を撃ち倒していく。トーマスの銃は七発までは連続で撃つことができるが、撃ってしまうと他の古銃同様装填の時間が必要になる。そのタイムラグを埋めるように、二人はタイミングを計って引き金を引いた。標的の殆どはトーマスの銃弾に倒れたが、二人の弾丸も着実に屍の山を築いていった。
 ほどなくして、耳障りな銃声がぴたりと収まり、辺りに静寂が戻った。
「終わった、のか……?」
 二人は一先ず落ち着いたことに安堵した。
 生存者がいないか確認するため、落ちていたライトで兵士を照らす。兵士の殆どが正確に急所を撃ち抜かれており、皆屍となっていた。
「おっかないご老体だ」
「ですね。現役の傭兵だったら俺たちがこうなってた」
 二人はライトを点滅させてこちらの無事を知らせた。すると向こうからも無事であるという合図が返ってきた。まずは第一関門突破といったところか。

 レオポルトたちを邸に入れるため、二人は正門まで走った。先ほどの迎撃に参加していたのか、正門には見張りが一人も立っていなかった。更に鍵もかかっておらず、門はあっさり侵入者によって破られた。
「おう! 生きておったか!」
 意気揚々と現れたトーマスがタバティエールとキンベエの背中を叩いた。
「どうだ、完璧だったろ儂の作戦は。他の連中もこうしておればよかったんだ」
「いや、俺らじゃなかったら死ぬだろこれ……」
 全員が場数を踏んでいるから成功しただけである。素人が同じ真似をしたら即死必至だ。
「そっちは大丈夫だったか?」
「ええ。近くにいた兵士が何人か騒ぎに気づいてこちらに来ましたが、滞りなく」
「いやー驚いた。小綺麗な顔と銃のわりによくやりおる」
「あはは……ありがとうございます」
 顔は関係ないだろうと言いたかったが、レオポルトが気にしていない様子だったので、タバティエールは聞き流すことにした。
「無駄話をする時間はないぜ爺さん。さっさと本命に行かねえと」
 四人はキャロルが待っている邸を見据えた。
 建物の外にいた兵士は一通り片付いている。追撃がないということは、残りの兵士は全員邸の中にいるのだろう。
「さて、どうしたもんかね」
 タバティエールは煙草を弾き、灰を落とした。
「弾除けになりそうな物もないようだから、正面から行くのは危険だね」
「と、なると、やっぱり裏口から侵入するしかないですかね」
「それしかないだろう。中から撃たれたら邸に近付くこともできん」
 三人の意見は使用人用の裏口から侵入するルートで一致した。それが最も確実で安全だからだ。
 しかし
「いや、正面から行くぞ」
 トーマスだけが別のルートを提案した。
「待て爺さん。ない。それだけは絶対にない」
 タバティエールは彼の意見を真っ向から否定した。
「あのな爺さん、相手はマスケット銃じゃねえし、俺らも四人しかいないんだ。隊列を組んで正面から撃ち合う戦場じゃねえんだから、真っ直ぐ乗り込むなんて自殺行為だろ」
「我々は最新鋭の銃と違い装填に時間がかかります。安全を確保できる場所があって初めてまともに戦えるのです。弾除けがないとなると、あなたとタバティエールくんは兎も角、私たちは足手纏いになります」
 レオポルトの言葉に同意し、キンベエは頷いた。
「気がはやるのもわかるが、そういう時こそ慎重に行動せんとな。トーマス殿、ここは一つ孫のためと思って折れてくれんか?」
 トーマスは腕を組み、低く唸った。確実にキャロルを助けるためと言われたら、彼も諦めるしかないだろう。
 そう、三人は思っていたのだが。
「……なーにを言っておるんだお前さんらは。誰が正面から撃ち合うと言った?」
「え?」
「撃ち合う必要などない。走れ。死ぬ気で走って突入だ!」
 号令をかけ、彼は三人の返答を待つことなく走り出した。
 馬鹿だ。トーマスは大馬鹿だ。
 キャロルの名前を出した程度では彼は引き下がらなかった。彼を戦場に送り込んだ者たちは一体何を教えていたのだろうか。銃弾の雨が降り注ぐ中でも走れば生き残れると教えたのか? それとも彼の経験論か? 銃弾が飛んでくる中を死ぬ気で走ったら死ぬに決まっているだろう。銃の腕はいいが途轍もなく彼は馬鹿である。
 三人はあからさまにわかりやすく思い切り溜息をついた。
「……仕方ない」
 レオポルトは片手でシャツのボタンを二つはずし、トーマスを追った。
「キンベエさん」
「なんだ」
「俺、帰ってもいいですか?」
 半分冗談で訊いた。キンベエは思い切りタバティエールの肩を叩いた。
 邸の方から銃声が聞こえ、二人も急ぎ邸へ走った。
 開け放たれた窓から兵士たちが銃を乱射する。戦力の大半を外に集中させていたのか、ざっと見てとれた数は両手で間に合う程度だった。それでも危険なことには変わりはなく、狙いが逸れるように蛇行しながら四人は走った。
 ——あの爺さん、本当に爺さんなのか?
 先頭を走るトーマスからは微塵も老いを感じない。弾を避けるタイミングも、走る速さも自分たちと変わらなかった。つくづく、敵に回らなくてよかったと思ってしまう。
 邸に近付くにつれ、銃撃の勢いが弱まっていった。平地対平地ならば相手との距離が近ければ近いほど威力が増すが、高所対低所の場合は距離が狭まるほど狙いづらくなる。建物の中から撃つ場合は特にそうだ。距離、角度の問題で死角ができてしまうのである。
 タバティエールは短くなった煙草を投げ捨て、こちらへの攻撃を中断して室内に戻ろうとした兵士を撃った。力が抜けた手からするりと銃が滑り、虚しく地面に落ちていった。
 戦場の神が味方をしてくれたお陰か、四人は無傷で邸のドアに辿り着いた。
「トーマス殿……ここは、慎重に……」
 レオポルトが言ったが、トーマスは息つく間すら三人に与えようとせず、両開きの木のドアを躊躇いもなく開けた。
 開け放たれた扉の先に待ち構えていたのは、広い玄関ホールと銃を構えた兵士たちだった。殺意に満ちた銃口が、一斉にトーマスに集中する。
 反撃せんと、トーマスも素早く銃を構える。レバーを動かし、撃鉄を上げるが、その間に敵の銃口が火を噴いた。
 無数の弾がトーマス目がけ加速する。それは、トーマスが引き金に指をかけるよりも遥かに速かった。
「伏せろトーマス殿!」
 キンベエが叫びに呼応するように、光が弾丸を全て弾き飛ばした。
——絶対高貴。
 光を纏ったキンベエは、庇うようにトーマスの前に立った。
「こんなところで使いたくはなかったんだがな」
 ぼやき、銃を構える。
「加勢しますか?」
「いや、この人数ならわし一人で十分だ」
 言って、キンベエは大理石の床を踏み鳴らした。
 放たれた光が次々と兵士を貫いていく。彼を止めようと兵士たちも銃を撃つが、向かってくる弾は羽虫よりも動きが遅く、キンベエは易々と避けた。避けながら、着実に敵を仕留めていった。
「なんだ、あれは……」
 驚いた様子で目を見開き、トーマスが尋ねた。人間、それもレジスタンスとは無関係の一般人にはさぞや異様な光景に映っているのだろう。
「高貴な輝き」
「こう、き?」
「あんたの中にもあるもんだよ」
 タバティエールはトーマスの胸を拳で軽く突いた。
 後ろから襲ってきた兵士を振り向きもせず撃ったところで、ようやく銃声が鳴り止んだ。纏っていた光が弾けるように消えると、キンベエはやれやれと肩を揉んだ。
「こいつは驚いた……」
 トーマスが大理石の床に伏せる死体を見て驚きの声を上げた。事の一部始終を間近で見ていたはずだが、まだ信じられないようだった。
「お前さんの銃はマッチロックだろ。どうしたらこんなことができる? あの光は何だ? お前さんは何者だ?」
「ああ、まあ……その質問はまた後にしてくれんか」
 キャロルを助けるのが先だとキンベエは話を逸らした。
 中の警備はこれで全員なのか、邸内は恐ろしいほど静かだった。誰もいないというのは人捜しをする分には好都合だが、罠でも仕掛けられているのではないかと勘ぐってしまう。
「キャロルちゃんはどこにいるんでしょうね」
「一人くらい道案内をさせるために残しておけばよかったかのお」
「どうでしょうな。監禁場所を雇われの兵士に教えるとは思えませんが」
「それもそうだな。手分けして捜すしか——」
 と、話をしている時に、床を叩く音がコツンと一つ。
 背後から迫る殺気にいち早く気づいたキンベエは、身を翻して突き出されたナイフを避けた。
 侵入者を刺し損ねた人物は光沢のある床に靴を滑らせ少しよろけたが、すぐに体勢を立て直し、こちらにナイフを向けた。
「お前は……⁉︎」
「あんたらを始末しろと言われた。悪いがここで死んでくれ」
 額に汗を滲ませながらそう告げた人物は、見覚えのある顔をしていた。
 相手を蔑むような目。冷ややかな言動。そう、彼は——
「そういうことか。お前が内通者だったんだな、店主」
 目の前の立ちはだかったのはバーの店主だった。
 三人が彼を最後に見たのはバックヤードに入っていく姿だった。あの時はトーマスによって荒らされた店を片付けるため掃除用具を取りに行ったものと思っていたが、よく思い出してみると出てきた姿は見ていなかった。掃除用具を取りに行く程度なら時間はかからないだろうし、表にいたのならレオポルトがカウンターから勝手に酒を持ち出したことを咎めただろう。
 恐らく、彼はトーマスがキャロルを捜していることを伝えるため店からいなくなったのだろう。着替えもせず真っ直ぐ向かったのは、相手が〈あのトーマス〉だったからに違いない。傭兵時代の自慢話を飽きるほど聞いていたから、一秒でも早く主に危機が迫っていることを伝えたかったのだ。
「いつからハーリー・ペインとつるんでおった」
 無言。
「先の奪還計画を密告したのはお前だな」
 また無言。
「はあ……答えてはくれんのか」
 トーマスはゆっくり銃口を彼に向けた。
 店主は息を飲んで一歩後退したが、ナイフを向けたまま彼と対峙した。
「まあ、過去のことはもういい。今訊きたいのはキャロルのことだ。お前さん、あの子がどこにおるか知らんか?」
 彼は答えなかった。
「知っておるんだろ? どこにいる?」
 トーマスは一歩距離を縮めた。
 対して、店主は遠ざけるように大きくナイフを薙いだ。圧倒的に不利な状況に置かれていることを自覚しているようで、一切の余裕が見られなかった。
「行こうぜ爺さん。相手にするだけ時間の無駄だ」
 タバティエールは銃を掴んで無理矢理下ろさせた。
 店主には対話の意思がなかった。あるのは自分の立場を守るためにこちらを消し去ろうという殺意だけだ。それも恐れが勝っている、弱者の殺意だ。殺意よりも恐怖心が上回った時点で脅威ではなくなる。放置しても害はない。
「あんたもナイフを下ろしてくれ。安心しろ、あんたのことは見なかったことにしておいてやる」
「嘘だ……信じられるか!」
「嘘じゃない。な、爺さん?」
 同意を求められ、トーマスは舌打ちをした。
「こっちも世界帝軍に直接関わっていない者と戦うつもりはない。ハーリー・ペインも世界帝軍もわしらでどうにかする。だから大人しく退いてくれんか?」
 キンベエが説得すると、店主はナイフの刃先を床に向けた。
「……どうにかって……あんたたちはレジスタンスなのか?」
「さあ、な?」
 三人は肯定も否定もせず、店主に笑いかけた。
 店主の手からナイフが滑り落ちる。遅れて、彼自身も冷たい床に尻をついた。
「一階廊下の鏡……そこに地下の隠し通路がある……」
「そこにキャロルがおるんだな⁉︎」
 店主は項垂れた頭を更に落とした。
 トーマスは銃を掴むタバティエールの手を乱暴に振り払い、鏡を探しに走り出した。
「ありがとな」
 自分たちを信じてくれた店主に礼を言い、三人はトーマスを追った。

 中世甲冑が等間隔に立ち並ぶ廊下の壁。そこに黄金の飾り枠が目を惹く、天井まで届く不自然な大きさの鏡があった。これが店主が言っていた隠し通路の入口なのだろう。
 表面を叩くと普通の鏡と何ら変わりのない音がした。試しに押したり、飾り枠ごと横に引っ張ってみたが、動くことはなかった。
「どうやって中に入るんだ」
「隠し扉でしょうから何か仕掛けが施されているはずです。皆で手分けして探してみましょう」
「探すだと? そんなことに時間を割いとる場合か⁉︎」
 トーマスはレオポルトの提案を一蹴した。
「こんな薄板、儂が叩き壊してくれる!」
 銃身を両手で握り、彼は銃を振り上げた。それを、タバティエールが慌てて羽交い締めにして止めた。
「待て待て爺さん。銃を粗末に扱うなって」
 鈍器として使うことは戦場においてはよくあることだが、銃は腐っても銃。殴る事に特化している物ではない。細工が多い分、剣やハンマーより耐久性が乏しい。殴って部品が壊れてしまったら使い物にならなくなる。一人も戦力を失うことが許されない今、彼の銃には傷一つ付けさせるわけにはいかないのだ。
「だが時間が惜しいのは確かだ……」
 どこにあるかわからない仕掛けを探すよりも叩き壊してしまった方が合理的ではある。問題はその方法なのだが。
 キンベエは手近に使えそうな物がないか周囲を見渡した。丈夫で扱いやすく、割ることに特化している物がいい。
「おお、これなら」
 丁度よさそうな物を見つけ、キンベエはそれを中世甲冑から引き抜いた。
 手にした斧槍は重さ、長さ、触れた感触は申し分なかった。耐久性については、壊れてもまだ替わりはいくらでもあるので気にする必要はない。
「皆、わしから離れていろ」
 二回素振りをし、目標に向けて斧槍を構える。下半身を床と一体化させるように固め、上半身全体の筋肉を駆使して斧槍を振り上げ。
 一気に鏡に叩き落とした。
 鏡と斧槍の接触箇所から、蜘蛛の巣を張るように白いヒビが走る。同じところを打てば打つだけ細かな亀裂が入る。
 そして四度目の衝撃によって鏡は砕け落ちた。
「これはこれは。お見事です」
 見事な破壊ぶりに感動し、レオポルトは称賛の拍手を送った。
「まさかここで日頃の薪割りの成果が発揮されるとはな」
 サカイとクニトモの薪割り当番の回数を増やすかと考えながら、キンベエは刃こぼれした斧槍を中世甲冑に返した。
「さて、と」
 ボロボロに割れた鏡の先にあったのは、地下に続く石造りの階段だった。
 タバティエールは吸い込まれそうな暗い階段をライトで照らした。ここからでは女性たちの姿は疎か、地下室すら確認することができなかった。
「降りるぞ」
「ああ。だが全員で行くのは危険だ。敵に見つかったら袋のネズミだ」
 敵は一通り片付けたつもりだが、もし援軍が来てしまったら逃げ場がない。誰か一人を地上に見張りとして残しておくのが得策だ。
「でしたら私が。怪しい動きがあったらすぐに知らせます」
「任せたぞレオポルト」
 レオポルトを残し、三人は砕けた鏡を踏み鳴らしながら階段を降りた。
 狭い空間に複数の足音が反響する。
 一段、一段。階段を降りる度、異様な空気が肌に絡みついてくる。トーマスと対峙した時とは違う、別の息苦しさを感じる。息苦しいのは地下という狭い空間のせいもあるだろうが、何かが……何かが心臓を締めつけている気がするのだ。
「何だ、この臭い……」
 鼻を突く異臭に顔を歪める。最初は微かに臭う程度だったが、地下に進むほど臭いは強くなっていった。下水道の臭いとはまた違う、吐き気を催すくらい不快なものだった。
「ここは……!」
 最深部に到達した三人は、目の前に広がる信じがたい光景に絶句した。
 牢屋があった。囚人……いや、奴隷を収容するような檻が地下に作られていた。見たところ牢屋そのものは随分昔に作られたようだが、鉄格子と錠は新しい物だった。牢屋を利用するために作り直したのだろう。
 牢の中には汚れた薄い毛布だけが残されており、他は何もなかった。人として生きるのに最低限必要な物が、何一つそこにはない。
 壁際には溝が掘られており、水が流れていた。どうやら下水が流れているようだが、地下に充満する異臭はそれだけが原因ではないような気がした。
「キャロル! どこだキャロル!」
 トーマスが呼びかけた。けれど返事はなく、彼の声が響くばかりだった。
「キャロル!」
 もう一度名前を叫ぶ。
 すると、奥の方から呻き声のようなものが聞こえた。今にも消えそうなほどか細い声だった。
「キャロル!」
 トーマスはタバティエールからライトを奪い、声の方へと駆け出した。
「勝手に行くな爺さん!」
 タバティエールとキンベエも光を見失う前にトーマスを追った。
 地下は想像していたより広い造りになっていた。広い空間に、延々と牢屋が並んでいる。
 奥に進むほど異臭が強くなっていく。その激臭で鼻が馬鹿になりそうだった。こんな環境に置かれたら、いくら身体が丈夫でも精神が狂ってしまいそうだ。
 最奥部に着くと、一足早く到着したトーマスが呆然と立ち尽くしていた。
「爺さん、キャロルちゃんは——⁉︎」
 尋ねると、彼は無言でライトの先を見ろと顎で示した。
 彼が照らしていたのは牢の中で俯せで倒れている少女だった。薄い肌着から露出する手足は骨の形がわかるほど痩せ細っており、美しかったであろう髪もバラバラに抜け落ちていた。
 少女は動かなかった。もう既に事切れているのだろう。
 他の牢にも同じような女性たちがいた。皆痩せ細り、腐敗し、中には白骨化した遺体もあった。
 目を背けたくなる現実とはこのことか。女性たちの痛ましい姿に、二人は胸が張り裂けそうになった。
「あ……あ……」
 牢の奥から声がした。先ほど聞こえた声と同じ声だった。
 声の主は短い髪の少女だった。虚ろな目をした少女は力なく壁に寄りかかり、両手足を投げ出すように座っていた。
「大丈夫か⁉︎」
 呼びかけるが返事は返ってこなかった。まるで聞こえていないように「あ……あ……」と喉を鳴らすだけだった。
 幸いなことに牢の錠は外されており、キンベエはすぐさま少女に駆け寄った。
 抱き寄せた少女の身体はとても細く、軽かった。頬は痩け、少女本来の若々しさは失われていた。
「しっかりしろ! わしの声が聞こえるか⁉︎」
 彼女は変わらず喉を鳴らした。けれど今度はキンベエの問いに答えるように僅かに頭を縦に動かした。
「よし、もう大丈夫だ。すぐに助けてやるからな」
「た……け……」
 少女が振り絞るように何かを口にした。キンベエは耳を近付け、彼女の声を一つ一つ拾った。
「た……け……あ……あ……」
「たすけ、あ、どあ?」
 少女の言葉をキンベエは復唱した。少女はもう一度小さく頷いた。
 瞳を動かし、少女はある一点を見つめた。
「そこにお前さんが望むもんがあるんだな?」
 少女は頷き、深く、ゆっくり息を吸って、それから、動かなくなった。
 キンベエは彼女を横たわらせ、瞼を撫でた。
「……キンベエさん」
「大丈夫だ、タバティエール」
 不安げなタバティエールにキンベエは心配ないと告げた。その声は、普段の威厳のある声とは違う、別人のようなだった。
「トーマス殿。どうやらお孫さんはこの扉の先にいるらしい」
 キンベエは最奥部に設置されている鉄扉を叩いた。
 キャロルが扉の先にいることを告げたのは、腕の中で息絶えた少女である。
 最期に少女が彼に託した言葉は
『たすけて。あのドアに』
 だったのだ。
 これはキンベエの憶測に過ぎないが、牢屋に一人も〈生きた女性〉がいないということは、彼女たちはこの鉄扉から別の場所に移動させられたのではないだろうか。先の少女はまだ生きていたが瀕死の状態であったため、取り残されてしまったのだろう。
「だが、扉には鍵がかかっておる。ここから追うことは難しいな」
「なんだと⁉︎」
 キンベエはドアノブを回し、引いたり押したりしてみるが、鉄扉はぴくりとも動かなかった。
「おのれハーリーめ!」
 トーマスは激昂し、壁にライトを叩きつけた。ようやく見つけられると思った矢先にまたふりだしに戻された怒りは凄まじく、興奮した猪のように息を荒げて戻っていった。
「俺らも戻りましょうか」
 タバティエールはライトを拾い、踵を返そうとした。
「悪いが一つ頼まれてくれんか?」
 そう言って、キンベエはタバティエールを引き止めた。
「頼みごとですか?」
 キンベエは鉄扉のノブを回し、手前に引いた。すると、つい先ほど『開かない』と言っていたはずのドアが、軽々と開いてしまった。
「キンベエさん? これって……」
「この先に何があるのか見てきてくれんか? わしが行きたいところだが……今は冷静な判断ができるかわからんからな……」
 やはり、少女を看取ったのが少し堪えているようだ。彼を作った人物にも娘がいたというから、その影響もあるのかもしれない。
 もしこの先でハーリーと鉢合わせした場合、キンベエは怒りに任せて彼を裁くだろう。柱のように堂々と構えることをよしとする彼としては、それは避けたいことなのだろう。
「任せてください」
 タバティエールは鉄扉の先にあるコンクリートの階段を駆け上がった。
 彼を見送ったキンベエは、必ず家族のもとへ帰すと少女たちに話しかけ、背を向けた。
 来た道を戻る途中、一発の銃声が鉄格子を震わせた。
 嫌な予感がし、足早にレオポルトが待つ場所へ戻った。

 最後の一段を上りきり地上に戻ると、ようやく異臭から解放された。
 けれど安心している暇はなく、事態が飲み込めないといった様子で目を白黒させているレオポルトを連れて急ぎトーマスを捜した。
「一体何が。ミス・キャロルは?」
 キンベエは簡潔に地下で見たものを説明した。レオポルトは眉をひそめ、労しいと声を漏らした。もう少し、あと一日早く事態を知っていたら助けられたかもしれない。悔やんでも仕方がないことだとわかっているが、彼女たちの魂が救われることを願うことしかできないのは溜まらなく悔しかった。
 一階にある部屋のドアは全て開かれたままになっていた。念のため部屋の中を見渡すが、どの部屋にもトーマスはいなかった。
 再び、今度は上から銃声が鳴った。
 音を追って玄関ホールの階段から二階に上る。やはり二階にある部屋もドアが片っ端から開かれていた。その内の数部屋には先ほど外に向けて銃を撃っていたと思われる兵士がおり、彼らは皆、絨毯を赤く染めていた。
「ハーリー! どこにおる⁉︎ 今すぐ出てこんか!」
 トーマスが怒鳴った。どうやら彼は邸のドアを手当たり次第開けてハーリーを捜しているようだ。
 二人はトーマスがいると思われる部屋に向かった。
 部屋は酷い荒れようだった。床中に書類と割れた陶器が散らばり、壁に掛けられた美しい絵画には兵士の血が飛び散っている。窓ガラスも全て割られており、外から吹き込む風が床に落ちている書類を舞い上げた。
「あの小僧……おのれ、逃げおったな……」
 トーマスは怒り任せに椅子を蹴り飛ばした。
 どうやらここは邸の主の部屋らしい。豪奢な金の装飾が施されたベッドや、繊細な彫刻が施された机、最新式のラジオなどが置かれている。
 レオポルトは落ちている書類を集め、ざっと目を通した。世界帝軍に関する資料があれば、レジスタンスにとって大きな武器になる……のだが、書類には売上げのことしか書かれておらず、めぼしい情報はなかった。
「レオポルトさん! ここにいたんで……って、なんだこの部屋」
 別行動をしていたタバティエールが、合流するなり部屋を見て吃驚《きっきょう》した。酷い散らかりような上に兵士の死体まで転がっていたら誰でもそうなるだろう。
「どうだった、タバティエール」
 キンベエが尋ねた。
 タバティエールはトーマスに聞かれないよう小声で別れてからのことを簡単に説明した。
 地下の階段は外に直接繋がるものだった。上がっていくと突き当たりにまたドアがあり、開けると邸の外に出ることができた。内側からしか開かない構造のドアらしく、一度外に出てしまうと完全に閉め出される形となる。再び中に戻るには、また正面から邸に入る必要があるようだ。
 出た先は敷地内にある殺風景な場所だった。花壇や石像などはなく、ただ何もない空間だけが存在していた。
 それを不自然に思い、タバティエールは周囲を調べた。すると、地面にできたばかりの複数人の足跡とタイヤ痕が残っていることに気がついた。
「やられました。俺らが邸に入ったタイミングで女性たちを連れて逃げたんでしょうね」
「はぁ、参ったな。いよいよ救出が難しくなってきたぞ」
「ですね。ああ、あと」
 もう一つ伝えたいことがあり、付け加えた。
「外に店主の死体が」
 店主の身体には銃弾が貫通した痕が残っていた。殺したのはハーリーで間違いないだろう。理由は敵の始末に失敗した、あるいは誘拐事件の口封じあたりだろう。
 キンベエはレオポルトとトーマスに、ハーリーが車で逃走したことを伝えた。
 少しでも早く彼の逃走に気づいていれば事態はここまで悪化しなかっただろう。一瞬でも車の特徴などを掴むことができれば追うのは然程難しくない。だが車種も行く先も不明となると追いたくても追えない。そもそも追うための足もないので、お手上げである。
「いや、まだだ。諦めるには早いぞ」
 諦めかけている二人にトーマスが言った。
「どういうことだ?」
「車なんぞわからなくても、行き先がわかっていれば追える」
 まるでどこに向かっているのかわかっているような言い草だった。
「……そうですね、今ならまだ間に合うかもしれません」
 レオポルトはトーマスに同意すると、訝しげな表情の二人に、ハーリーのデスクから取り出した鍵を見せた。
「気分転換に、皆でドライブと洒落込みましょう」

・・・

 ハーリーのガレージには初めて見るような車が四台置かれていた。どれも綺麗に磨かれており、ボンネットに月明かりが美しく反射していた。
「素晴らしい。流石富豪は違いますな」
 レオポルトは楽しそうにオープンカーを撫でた。
「是非この車でマスターくんとドライブデートに行きたいね」
 冗談を言いながら、彼は運転席に座った。
「お、いいですね。綺麗な海を眺めながらのドライブとかマスターちゃん喜びますよ」
 デートの話に便乗したタバティエールはレオポルトの後ろに座り、隣にトーマスを座らせた。トーマスは助手席に座ろうとしたが、彼では助手にならないので却下した。
「ふざけている場合か。少しは緊張感を持て」
 助手席に座ったキンベエは、大きな音を立ててドアを閉めた。
「まあまあキンベエ殿。ドライブはあまり緊張しすぎてもよくありませんから」
 苛立つキンベエを宥め、レオポルトはギアレバーに引っ掛けられているゴーグルを装着した。
 キーを回し、エンジンをかける。音を聞く限り良好のようだ。
「あー、レオポルト。くれぐれも……くれぐれも安全運転で頼むぞ」
「ええ、お任せを」
 彼の運転技術は信用している。信用できないのは意外と無茶をするところだ。
「で、ハーリーはどこに向かってんだ?」
「知らん」
「いや『知らん』って! さっき行き先がわかるようなこと言ってただろ」
「奴が行こうとしている場所は知らん。儂にわかるのは奴がどのルートで街を出たか、だ」
「どういうことだ?」
「この街は東西南北にそれぞれ一カ所ずつ検問所がある。その内、夜中でも出入り可能なのは西検問所だけだ」
「彼はそこを通ったと?」
「間違いない」
 トーマスは断言した。確かな証拠がないので本当にハーリーが西検問所から街を出たのか疑わしいところではあるが、街に詳しくない三人は、こればかりはトーマスを信じるしかなかった。
「レオポルトさん煙草吸ってもいいですか?」
「構わないよ。ああ、でも。シートに灰を落とさないようにね」
「終わったら持ち帰るつもりですか?」
「はは、貰えるならね」
 レオポルトは笑い、車を発進させた。徐々に加速し、忌まわしい邸から大通りへと出た。
 夜が深いこともあり、道路を走る車はなかった。これ幸いと言わんばかりに、レオポルトは更に加速した。加速すると、向かい風が耳元で低く唸った。
 街の景色が目が回るほど速く通り過ぎていく。折角なら車で街を一周して観光を楽しみたいところだが、この速度では観光どころではない。今自分たちが大通りを走っているということ以外把握できなかった。
「レオポルト! ちょ、ちょっと速くないか⁉︎ 少し減速した方が——」
「馬鹿か若造! スピードを落としたら追いつけんだろ! このまま走れ!」
「道は合ってんのか⁉︎」
「なんだ⁉︎」
「検問所までの道は合ってんのかって訊いてんだよ!」
「ああ⁉︎ 合っておるわ!」
 言葉一つ伝えるにも、風の音が邪魔をしてなかなか相手に声が届かなかった。別に誰一人怒ってはいなかったが、車内には男たちの怒鳴り声が飛び交った。
 『この先 西検問所』という標識を過ぎると、目の前が妙に明るくなった。目を凝らして何があるのか確認する。
「検問所の兵士か!」
 武器を持った不審人物がいるという情報が既に彼らに届いていたのだろう。検問所には武装した兵士たちが待ち構えていた。ハーリーが足止めを依頼したに違いない。これで彼が西検問所から外へ逃げたことが確定した。
 さてどう突破するか。止まっても走り抜けようとしても彼らは撃ってくるはずだ。方向転換をしようにも、今のスピードで下手にハンドルを切ると周辺の建物を巻き込む大事故が起こりかねない。
 検問所までの距離はあと僅か。切り抜ける方法があるとすれば。
「レオポルトさん! このまま行ってくれ!」
 タバティエールは前方のシートに掴まり、立ち上がった。
「何をしておる! 危ないぞ!」
 立っていようが座っていようが危険であることは同じだ。タバティエールはキンベエの声を聞かなかったことにした。
 足を踏ん張ってバランスを保ち、タバティエールは銃を構えた。
——絶対高貴。
 呟いた彼は、眩い光に身を包んだ。
 車上であろうと視界にブレはなかった。暗闇と同化する装いであっても、タバティエールの目にははっきり敵の姿が映っていた。光のない場所に隠れている卑怯な兵士も、とっくに射程内に収めている。
「通らせてもらうぜ!」
 銃口から放たれた光が、導かれるように兵士たちを撃ち抜いた。急所を撃つその正確さは、まるで見えない糸に引かれているようだった。相手に引き金を引く隙など与えることなく、タバティエールは検問所の兵士を一人残らず片づけた。
 ついでに、邪魔な遮断機も破壊した。
「やるな小童! よし、儂も——!」
「爺さんは座ってろ!」
「頼むからじっとしててくれ!」
 加勢しようとしたトーマスに、同時に叫んだ。
 無人になった検問所を無事通過すると、タバティエールは一仕事終えたとシートに身体を預けて咥えていた煙草を深く吸った。どんなトリックを使ったのだろうと言いたげにトーマスが銃を触ってきたが、更に疲れるのも嫌だったので好きにさせた。
 街を出た先に広がっていたのは何もない平坦な道だった。道路はきちんと舗装されているが、それ以外の場所は好き放題に草が茂っていた。
 さて、ここからハーリーはどこに行ったのだろうか。最大の問題が男たちの前に立ち塞がる。馬鹿正直に道路を利用していればいつか追いつけるだろう。しかし草むらを通過していたら追うのは困難だ。草が踏み折られた痕跡があればそれを辿って追えるのだが、そもそも痕跡を探すだけでかなりの時間を要してしまう。連れ去られた女性たちが無事に街に帰されるとも考えにくいので、できれば時間はかけたくない。
 そうなると、もはや賭けるしかない。
 レオポルトはギアを変え、スピードを上げた。向かってくる風と圧が、男たちの身体をシートに押しつけた。
 これは根拠のない勘だが、ハーリー・ペインという男は自身の力で今の地位と権力を手にしたわけではない。代々受け継がれていたものをそのままもらい受けたに過ぎない。誰かが作った障害のない平坦な道を、悠々と歩んでいるのだ。人攫いにしても指示は出すが自らが直接攫うことはない。自分の手を汚すことなく富を増やすことが彼が選んだ生き方なのである。
 そんな人物が逃げ道を選択するとしたら。可能性として高いのは舗装された安全な道だ。どこを走っても石などが走行の邪魔をし、もしかしたら先の戦争の忘れ物が埋まっているかもしれない危険な道をあえて選ぶとは考えにくいのだ。
 勘だ。だが限りなく正解に近いと思っている。レオポルトはその勘に賭けた。
 道は果てなく続いている。ライトで照らしても見えるのは一寸先の足下だけだった。切望するものは闇に飲まれて、いまだその姿を見ることができない。
 どこまで行く。どこまで走れる。焦りが募ると共に、メーターが気になり始める。
 ガソリンメーターは半分を切っていた。どうやら長期戦は難しいようである。スタンドで給油できれば話は別なのだが……と、考えたが、そもそもガソリン代など持ち合わせていないので考えるだけ無駄だった。
「レオポルト!」
 キンベエが前方を指差した。その方を見ると、道を照らすライトに黒いタイヤの陰が映り込んでいた。
(やはり間違いではなかった)
 レオポルトはクラクションを鳴らし、追跡者の存在を知らしめた。
 前方を走行しているのは世界帝軍の軍用トラックだった。後ろからでは誰が乗っているのか確認できないため、レオポルトはスピードを保ち、慎重に追った。荷台に乗っているのが女性たちならば問題ないが、兵士だった場合は非常に不利な戦いを強いられることになるからだ。
 こちらの存在に気づいたトラックがスピードを上げた。撃退ではなく逃亡を選択したということは、完全に黒である。金があれば兵士だけではなく車両まで個人で自由に使用できるようだ。
「逃がしはしないよ」
 レオポルトは深くアクセルを踏んだ。スピードメーターが押されるように右に倒れていく。
 動きを封じようと、タバティエールは後輪に照準を合わせて銃を撃った。しかし当たらず、弾丸は虚しく弾かれた。
 もう一度絶対高貴になるか。そう思い、再度立ち上がろうとシートに手をかけた。
「大丈夫だよタバティエールくん。ここは私に任せて」
 レオポルトが後部座席に少し顔を傾けて、タバティエールに座るよう促した。彼に任せてと言われては従うしかない。タバティエールは大人しくシートに座った。
 車間距離が変わらないまま二台の車は走り続けた。こちらが速度を上げると合わせるようにトラックも速くなるのだ。これではただのイタチごっこである。
(それならば)
 レオポルトはアクセルを徐々に離し、スピードを落とした。そしてある程度スピードが落ちると、ハンドルを傾けて車を反対車線へ移動させた。何をするつもりなのかと不安げな表情のキンベエを余所にギアを変え、固くハンドルを握り直す。
「少し無茶をしますので、しっかり掴まっていてください」
 告げて、レオポルトはアクセルを踏み込んだ。
 加速した車が風を切る。先ほどよりも強い圧が全身に襲いかかり、目を開けることはおろか、息をすることさえも困難となった。
 先よりも加速したことで、スピードを緩めた際に開いてしまったトラックとの距離が縮まっていく。
 縮まり。
 縮まり。
 やがて並走し。
 ついに。
 追い抜いた。
 サイドミラーに映るトラックが小さくなっていく。完全にミラーに映らなくなっても、レオポルトはスピードを落とさなかった。それどころか、メーターを振り切る勢いで加速を続けた。そして十分引き離したことを確認すると、ハンドルを回して滑るように方向転換した。
 キンベエたちは急な方向転換で身体が浮き上がり、車から振り落とされそうになった。思わず大人げなく悲鳴を上げるが、その声は鼓膜を裂くようなスリップ音で掻き消された。
 レオポルトが何をしようとしているのか、それはタバティエールとキンベエには予測できなかった。ただ現状わかっていることを一つ挙げるとしたら、車が反対車線に移り、逆走し始めたということだ。つまりこのまま走ると、向かってくるトラックと正面衝突することになる。
「キンベエ殿! 申し訳ありませんがハンドルをお願いします!」
「え⁉︎ あ⁉︎ おい! レオポルト⁉︎」
 キンベエにハンドルを預けたレオポルトは、銃を取っておもむろに立ち上がった。
 前方からトラックの明かりが近付いてくる。双方スピードを落としていないため、衝突まで数十秒もないだろう。
——絶対高貴。
 高貴な輝きを纏い、レオポルトは迫り来るトラックに向けて銃を構えた。
「さあ、これで終いだ」
 闇を走る一筋の光が、ガラスを突き破り兵士の眉間を撃ち抜いた。ハンドルから手が滑り落ち、だらりと背もたれに崩れる。
 それでもトラックの勢いは止まらなかった。もう既に目と鼻の先まで迫っている。
 レオポルトはキンベエが必死に掴んでいるハンドルを素早く切った。車体は右側に逸れ、僅か数センチの差でトラックとすれ違った。
 運転手を失い走行不可能となったトラックは、大きく何度か蛇行してから道をはずれて草むらに入った。それからも蛇行を続けたが勢いは収まり、静かに止まった。
 レオポルトはもう一度方向転換し、トラックまで車を移動させた。勿論、今度は安全運転で。
「わしは……わしは二度とお前の車には乗らん」
 暴走運転により顔面蒼白となったキンベエが恨みを込めて言った。
「申し訳ありません。我ながら無茶をしました」
 言葉とは裏腹に、レオポルトは楽しげに目を細めた。

 車から降りた四人は荷台を開放するより先に助手席に向かった。中を覗くと、そこには身体を抱えて震えている男がいた。
「追いついたぜ、ハーリー・ペイン」
 タバティエールは窓を叩いた。追い詰められ、恐怖に顔を歪めるハーリーはタバティエールを見るなり余計身体を縮こませた。
「出てこいハーリー! 十秒以内に出てこなければ貴様を撃つ」
 撃鉄を上げた状態でトーマスがカウントを開始する。それでもハーリーは子鹿のように震えるだけだった。散々非道な行いで人々を苦しめてきたのだからどんな厚顔無恥で横柄な男なのかと思っていたが、蓋を開けたらただの臆病者で拍子抜けである。
「さん、にい——」
「まっ、待ってくれ!」
 残り一秒のところで、彼は慌ててドアを開けてシートから転がり落ちた。腹の贅肉がクッションになったのか、痛がる様子はなかった。
「随分手間をかけさせてくれたな」
 三人は怒りを孕む銃口をハーリーに突きつけた。
「さて、命乞いをする前に攫った女の子たちのことを聞かせてもらうぜ?」
「彼女たちに何をしてきたのか、じっくり聞かせてもらうよ」
 ハーリーの額に浮き出た脂汗が涙と混ざり合い地面を濡らす。こんな汚らしい水では、枯れた草も喜ばないだろう。口の端に溢れる泡を飛ばしながら、彼は己の蛮行を告白した。
 若くて見た目のいい女性を攫ったこと。彼女たちを地下牢に閉じ込めていたこと。商品として高値で取引していたこと。気に入った女性がいたら自分の欲の捌け口に利用したこと。自分のことを馬鹿にした女性に罰を与えたこと。もとから病気だった者や新たに病を患った者は商品にならないので食べ物を与えず餓死させたこと。死体は見せしめとして処理せず放置していたこと。次から次に出てくる鬼畜の所業に怒りを募らせ、三人はこの男は生かすべきではないと判断した。浮かしていた人差し指を躊躇うことなく引き金に添えた。
「お前さんら……すまんが、銃を下ろしてもらえんか」
 最も憤怒していたはずだ。誰よりも許せないはずだ。そう思っていた人物から発せられたのは意外な言葉だった。三人は驚いてしまい、一人銃を下ろしてしまったトーマスに注目した。
「こいつの命は儂に預けてくれるのだろう? なら、お前さんたちの役目はここまでだ」
 邸を襲撃する前に交わした約束。三人は目の前のことに必死になってしまい忘れていたが、トーマスは忘れていなかったようだ。
「……そうだったな」
 キンベエは引き金から指を離し、銃をゆっくり下ろした。レオポルトとタバティエールも撃鉄を戻し、後ろに下がった。
「すまんな、こんな老人の我儘に付き合わせて」
 トーマスは詫びと感謝の言葉を口にした。三人は無言で微笑み、謝る必要はないと応えた。
「た、助けて……お願いだ……頼む……」
 ハーリーは地面に両手をついて懇願した。
「そうやって助けを求めた娘どもを貴様はどれだけ苦しめたと思っておる?」
 彼を見下ろし、トーマスが尋ねた。
「お前さんの父親が世界帝軍相手に商売をしていたのは何故だと思う? 必死に築き上げた工場とお前さんを守るためだ。商売はしても決して媚びず、逆に利用しようともしなかった。お前さんの父親は立派な男だった」
「あ、ああ……それは……」
「儂の向かいに住んでおるレリック夫妻はな、いなくなった娘を毎日必死に探しておった。今夜までは生きていたと知ったらさぞ悲しむだろうな」
 刹那、千切れた太い指が宙を舞った。弾丸に砕かれた切断面からは血が吹き出し、ハーリーは悶絶した。
「パン屋のジョーンズはたった一人の家族を失ったショックで数日前に自殺した。娘の部屋で首を吊ったそうだ」
 熱を帯びた弾が太腿を貫通した。溢れ広がった血が大地に吸われていく。
「他にもお前さんのせいで人生を狂わされた者が大勢おる。お前さんに彼らの悲しみや怒りがわかるか? わからんだろうな。人の痛みがわかるならそもそもこんなことはせんからな」
 トーマスは空になった銃床に弾を流し込んだ。
「助けて……謝る! 謝るから……だから……!」
「ハーリー、この世には謝るだけでは償えないことがある。儂もお前さんも、いくら懺悔しようと楽園には行けんよ」
 嫌だ、嫌だと泣き叫びのたうち回るハーリーの額に、トーマスはぴたりと銃口をつけた。
「喚くな小僧。積もる話なら地獄でゆっくり聞いてやるから先に逝って待っておれ」
 レバーを引き、撃鉄を上げ
「よく覚えておけ。お前を殺した男の顔をな」
 静かに告げた後、銃声が冷たい空気を震わせた。

 訪れた静寂の中に、銃が落ちる音が一つ。
 戦争が終わった。トーマス・フィッシャーという一人の人間の戦いが、彼の手で終わりを迎えたのである。
「……爺さん」
 タバティエールはどことなく小さく見えた背中に手を伸ばした。が、それはさらりと躱されてしまった。
「キャロル!」
 トーマスは荷台の扉に手をかけた。
 扉には鍵かかかっていた。キンベエは運転席の機材に引っ掛けられていた鍵をトーマスに投げ渡した。
 トーマスは錠に鍵を挿そうと試みたが、何度やっても上手くいかなかった。
 震えていた。弱々しい老人のように、彼の手は小刻みに震えていた。この現象を、タバティエールはよく知っていた。
 初めて戦場に出て人を殺した兵士のそれと同じなのである。
「貸しな爺さん」
 見るに見かねて、タバティエールが代わりに鍵を開けた。
 重たい扉を開くと、複数の視線を一斉に向けられたのを感じた。殺意はない。感じたのはこちらに対する底知れない恐怖心だ。
「キャロル! キャロルはおるか⁉︎」
 荷台に上がり、トーマスが叫ぶと
「おじい、ちゃん……?」
 肌着姿の少女が一人、恐る恐る近付いてきた。
「おじいちゃん!」
 少女は嬉しそうにトーマスに飛びついた。
「おじいちゃん。おじい……ちゃん……」
 何度も迎えに来てくれた最愛の人の名を呼び、キャロルは涙を流した。
「遅くなってすまんかった……キャロル、無事でよかった……!」
 最愛の人を強く抱き締め、トーマスは迎えが遅くなったことを謝った。
 助けが来たことに安心したのか、他の女性たちもつられるように泣き出した。隣の者たちと抱き合い、無事に帰れることを喜び合った。
 連れ出された女性たちを無事保護することができ、三人もやっと緊張を解くことができた。
「これで一件落着ですな」
 レオポルトは目尻に皺を作り、再会した二人を見守った。
「やれやれ、もうこんな無茶はしたくないものだな」
 キンベエは凝り固まった肩を大きく回した。
「まあ、たまには気張ってもいいんじゃないですか。おじさんも」
 タバティエールは咥えた煙草に火をつけた。
「レオポルトさん、髪型が大変なことになってますよ」
「君もね」
 二人は風で乱れた互いの髪を見て笑った。
「おお! 二人とも見てみろ」
 キンベエが指差した先に、今まさに昇ろうとしている白い朝日があった。
 騒がしかった夜闇が、朝日に溶かされ消えていく。

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