これを煩わしいと感じるかは個人の問題だ。人……いや、貴銃士によってはなんとも思わない者もいれば、寧ろ喜びを感じる者もいるだろう。残念ながら八九はそのどちらでもない。毎朝飽きもせずやって来る訪問者にいい加減うんざりしていた。
それが始まった理由は実にくだらなく、八九にとっては些細な事だった。徹夜でゲームに没頭していたために朝起きることが出来ず、午前中の授業を全てすっぽかしてしまったのである。けれど寝坊で授業に出ないことなど初めてではなく、八九は然程気にしていなかった。
が、彼の行動を見過ごせない人物にその事が伝わってしまい、翌日の早朝から無駄に疲れる攻防戦が開始されることとなった。
一日目はノックもせず勝手に部屋に入ってくるなり毛布を剥ぎ、大声で叩き起こされた。
二日目は食堂から借りてきたのか、お玉でフライパンを叩きながら起こしに来た。廊下で騒音を響かせていたせいで隣接する部屋の学生全員から苦情が来た。騒いだ本人ではなく八九のもとに。
三日目はどこから持ってきたのかわからないラッパを片手にやって来た。軍人らしくそれを吹いて起こそうとしたらしいが、そもそも吹き方がわからないようで、ずっと耳元でスカースカーと空気が抜ける音だけ聞こえた。懸命に吹いている姿を想像したら、おかしくて思わず笑ってしまった。
四日目はシンプルだった。寝ているところを、弾みを付けてのしかかってきたのだ。ただのしかかってきただけならまだ耐えられただろうが、不運なことに膝が綺麗にみぞおちに入ってしまい、死にかけた。
流石に反省をしたのか、次の日からは大分大人しくなった。あまりにも普通に起こしに来るため、スルースキルが上がったくらいだ。
そんな油断していたある朝、最悪な寝覚めを体験させられた。
ドアが開閉する音が聞こえたかと思うと、耳元で自衛軍の起床ラッパが鳴り響いたのである。自衛軍時代の条件反射で飛び起きた八九は、バクバクと鳴る胸を押さえながらカセットデッキを持ってニコニコしている人物にふざけるなと怒鳴った。
どこで起床ラッパ音を入手したのかと尋ねると、なんと自衛軍に直接頼みカセットテープに録音してもらったらしい。
たった一人を起こすためにわざわざ自衛軍まで巻き込んだことに、八九は逆に感心した。感心しながら、二度と使わせまいとテープを限界まで伸ばしてからハサミで切り刻んで捨てた。
それが昨日のことだった。
習慣化されるというのは恐ろしいもので、気が付けば彼女がやって来るであろう時間帯になると、たとえ徹ゲーあとの就寝であっても勝手に眠りから覚めるようになっていた。起きようという意思は全くないのだが、冴えつつある頭が二度寝を妨害するのである。
徐々に近付いてくるブーツの音。音の軽さ、歩く速さから彼女だとすぐにわかる。
いい加減にしてくれと、八九はドアに背を向けるように寝返りを打った。
「八九さーん。起きてますかー?」
ドアをノックしながら彼女が尋ねた。勿論返事はしない。一度先に起きて驚かせようと思ったこともあったが、起きた後にあれこれしろと言われるのが面倒だったのでそのまま寝た。
「八九さん入りますよー」
静かにドアを開き、部屋に入ると同じように静かに閉める。慎重に開閉するのは、大きな音を立てて他の部屋の者から文句を言われるのを避けるためだろう。
コツコツと、足音が真っ直ぐベッドに向かってくる。最終兵器を失った彼女が何を仕掛けてくるのかがわからず、八九は眠る余裕を失っていた。ただ動かず、背を向け、寝たふりを続ける。
「八九さん、朝ですよ。起きてくださーい」
耳元で囁いた。吐息が耳にかかり、鳥肌が背中を走った。
「八九さーん。朝ご飯一緒に食べましょう」
今度は身体を揺さぶって起こそうと試み始めた。普通はここまでされたら嫌でも起きるだろうが、八九は尚も毛布に身を丸めて抵抗した。
実のところ、彼女に起こされるのは嫌ではなかった。起こし方は雑か斬新のどちらかだが、どちらにしろ自分のことを案じての行動であることはわかっていたからだ。成績は悪くないのに寝坊や授業中の居眠りでマイナスになってしまっては意味がない、と彼女は常々言っている。言いたいことはわかるし、心配してくれるのも悪い気はしない。寧ろ毎日飽きもせず熱心に起こしに来る姿は、健気で可愛いとすら思っている。
だが、眠気には逆らえない。今は兎に角寝ていたいのだ。
「八九さん。起きないと悪戯しちゃいますよ」
吐息混じりの可愛らしい声で悪戯と囁かれ、僅かだが身体を震わせてしまった。いつもは煩いくらい元気なのが突然路線変更をしてきたため、心臓が大きく動いた。
一体何をするつもりなのか。何かされる前にもういっそ起きてしまった方がいいのではないか。だが眠い。怠い。ゲームの切りが悪く、寝たのは夜中の二時過ぎだ。辛い。
起きるべきか否か考えている間、聞こえてきたのはベッドが軋む音。ベッドの上に乗ったのか、マットレスの一部が沈むのを感じた。
またのしかかるつもりかと身構える。
けれど身体に重みがかかることはなく、代わりに頬に何かが当たった。
柔らかかった。そして少し湿り気がある。水を含ませたスポンジかと思ったが、冷たさは感じなかった。どちらかというと温かい。
一度だけでは済まず、彼女は何度もそれを顔に押し当てた。最初は頬だけだったが、段々とそれが顔中に広がっていき、こめかみや瞼にも当てられた。
(マジで何なんだ……もしかしてベルガーの蛇とかじゃねぇだろうな!?)
最悪な想像をしてしまい、八九はもう黙って寝ていられる気分ではなくなった。彼女が何をしているのか確かめなければ心置きなく二度寝が出来ない。
八九は意を決し、重たい瞼を開いた。そして身体を少し起こし
「……お前、何やって——」
何をやっているのか。そう言いかけた口に何かが当たり、唇が塞がった。
「——っ!」
頭が真っ白になった。目を見開き、状況を確かめようとしたが思考が追いつかなかった。時間と一緒に息が止まりそうになり、けれど胸は大きく鼓動を打ち、全身が一気に冷えたかと思うと一瞬で熱くなった。
目の前にはマスターの顔。そして触れているのは彼女の唇。何かおかしいと感じたのは彼女も同じで、驚いたように飛び退いた。
彼女は大きく目を見開き、それから何度も瞬きをした。細い指で自身の唇をなぞると、何が起きたのか理解出来たようで顔を真っ赤にした。
沈黙が続いた。お互い状況を把握するのに時間を要した。八九は頭の中で整理しようとしたが、マスターとキスをしてしまったという事実以外考えることが出来なかった。
「あの……おはようございます、八九さん……」
気まずそうにマスターが挨拶をすると
「お、おはよう、ございます……」
思考が停止している八九はオウム返しのように敬語で言った。
「その……ごめんなさい!」
そう言い残し、マスターは逃げるように部屋から出て行った。動揺していて加減が出来なかったのか、ドアを閉める音が響いた。
「〜〜〜〜〜っ!」
マスターがいなくなると、八九は頭から毛布を被って蹲り、声にならない声で叫んだ。
その日、八九が部屋から出てくることはなかった。