影を結ぶ

 今日は途中で雨に降られることもなく、天気に恵まれた日であった。
 背中に落ちていく夕日に寂しさを感じつつも、マスターは隣を歩く最愛の人と楽しい時間を過ごせたことを夕日に感謝した。
 士官学校に戻ってしまうと二人だけの時間もそこで終わってしまう。あそこには自分の帰りを待っている仲間がいる。それは嬉しいことなのだが、一秒でも長く彼との時間を満喫したいという気持ちが勝ってしまい、煉瓦道を歩く足取りが自然と遅くなる。
 マスターがやや遅れ気味になっているのに気付いたのか、八九も少し歩調を緩めた。
「悪い、速かったか?」
「いえ全然。大丈夫ですよ。ただ……」
 気遣ってくれる彼になんと答えようか少し迷ってから
「もう少しゆっくり帰りたいなと思いまして」
「お、おう……そうか……」
 思っていたことをまま伝えると、彼は照れくさそうに後ろ髪を掻いた。
「さっさと帰る理由もねぇしな。ゆっくり帰るか」
 言うと、彼は少し身震いをしてパーカーのポケットに手を入れた。
 日中は暖かくても陽が落ちれば寒くなる。日本とは違う気温の変化に慣れていないのか、背を丸めて息を吐いた。夕焼けに照らされて伸びる彼の影も寒そうにしている。
 マスターの方はというと、生まれ育った環境にすっかり慣れているので十分身体は適応していた。日没後の気温も考えた服装で対策もしているため、それほど寒いとは感じなかった。前を歩く自分の影も、実に堂々としたものだった。
 同じ歩幅。同じ速度。並んだ肩はどちらが先に行くことも後ろに下がることもない。本当はもっと早く帰りたいに違いない。けれど寒さを堪えてこうして合わせてくれるのは、彼が心底優しいからだ。その優しさに甘える間は、心も身体も温かくて心地良いものであった。
 少しでもこの温かさが伝わればと、マスターは手を少し彼に傾けた。すると同じように自身の影も動き、間が空いていた二つの影が繋がった。その形は、手を繋いでいるようだった。
 実物の彼も同じように手を取ってくれればいいのだが。僅かに期待を込めて見上げると、一瞬目が合ってからすぐに顔ごと大きく逸らされた。
 流石に手をポケットから無理矢理引っ張り出すわけにはいかず、マスターは大人しく手を引っ込めた。
 が、それを止めるように彼の影が伸びた。
「八九さん?」
 顔を向けないまま差し出された手。八九は何も言わないまま、ポケットの中で温めていたはずの手を目一杯広げて、冷たい空気に晒していた。
 それに驚き戸惑っていると、彼は早くしろと言わんばかりに人差し指をクイクイと曲げた。普段は恥ずかしがって積極的に触れようともしない彼からの誘いが嬉しくて、マスターは指を絡めて手を握った。
「ばっ……! お前! いきなりその握り方はなしだろ!」
 なにがなしなのか。エミリーにはわからず首を傾げた。
 自分から誘ってきたはずなのだが、顔を真っ赤に染めている彼曰く、手の握り方が思っていたのと違うらしかった。繋いでしまえばどんな形でも変わらないだろうと、マスターは彼の抗議など意に介さず微笑んで返した。
 八九は何か言いたそうに口を動かしていたが何も言わず、繋いだままの手をパーカーのポケットの中に収めた。
「これなら、少しは温かいだろ……」
 今にも消えそうな声に応えるように、マスターは胸を高鳴らせながら何度も頷いた。
「温かいです」
 彼の手の感触を確かめるように握り直すと、彼も離れないように握り返してくれる。仲間たちがいる前では決してしてくれないだろう。
 二人きりの、今だけ特別。
 仲睦まじく並んで歩く二つの影に、マスターは幸せを感じずにはいられなかった。
「なあ、少し帰りが遅くなるけどよ……その、何か食ってから帰るか?」
「はい!」
 空が深い紺色に変わっていく。結ばれた影は解かれることがないまま、濃紺に溶けていった。

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