『白月のワルツ』
夜も深くなり、談話室に集まっていた者たちが揃って部屋に帰る頃。マスターは誰にも見つからないようこっそり自室を抜け出した。そろりそろりと物陰に隠れながらエントランスまで下りる。静かに扉を開けて外に誰もいないことを確認すると、マスターは素早く宿舎から離れた。
別にやましいことをしたわけではない。ただ単に他人に見られたくないだけだ。これからすることを見られるのがとても恥ずかしいのである。
宿舎のどの窓からも死角になる場所まで移動すると、マスターは持っていたランタンに火を灯した。足下に淡い光が広がる。
「よし!」
マスターは軽く気合いを入れてから背筋を伸ばした。両腕を広げ、右腕はそのまま、左腕は肘を九十度に折り形を作る。相手がいれば様になるのだが、一人だとなんとも不格好である。
「いち、にい、さん……いち、にい、さん……」
足でリズムを刻み、身体にそれを覚えさせる。単純な三拍子だが、運動音痴である自分の身体に馴染ませるのは難しかった。いくらリズムを取っても、最初の一歩を踏み出すことができない。
やっと足を動かすことができても、すぐに崩れて最初からやり直しになる。三つ数えては止まり、三つ数えては躓きを繰り返した。
本来これは一人ではなく二人でやるものだ。恥を我慢して誰かに相手役を頼めばこんな間抜けなことをせずに済むのである。シャルルヴィルやシャスポー、エンフィールドなら快く引き受けてくれただろうし、ブラウン・ベスも何だかんだ言いながらも付き合ってくれただろう。
けれど——
わかってはいるのだが、彼らの時間を奪ってしまうことへの罪悪感が勝ってしまい、誰にも声をかけることができなかったのだ。
いつ何が起こるかわからない今の時代は、一刻一刻が貴重で無駄にすることができない。もし自分の我が儘に付き合わせて彼らが本来やりたかったことの邪魔をしてしまい、それが叶わない状態になってしまったら……〈もしも〉のことは考えたくないが、考えるなら後悔しない方を選びたい。
一人でどうにかできることは一人で解決する。それも彼らに生を与えたマスターの義務だ。
「もう一度」
再び靴裏で地面を叩いてリズムを取る。リズムに合わせて大きく前に足を出し、進み、ターンをかけるタイミングで足を擦り寄せる。
「マスター?」
背後から聞こえてきた声に驚き、両足が絡む。体勢を立て直そうとしたがそれができるほど身体は鍛えられておらず、そのまま地面に大きく転んだ。
「マスター!」
痛みに唸っていると、慌てて駆け寄ってきた人物に抱き起こされた。心配そうに顔を覗き込む彼の髪が、マスターの頬をくすぐった。
「アレク、さん?」
潤む瞳に映ったのは遠征に出ていたはずのアレクサンドルだった。
「お怪我はございませんか? 申し訳ありません、私が声をかけたばかりに」
身体を打ってしまったが少し痛む程度で大した怪我ではない。盛大に転んだ割には足も挫いてはおらず、問題なく動かすことができる。申し訳なさそうに目を伏せる彼に、マスターは心配ないと告げた。
立ち上がるために手を貸してくれた彼は、遠征用の外套を身に付け、荷物を肩に掛けたままだった。恐らく基地に戻ってすぐここに来たのだろう。尋ねると実際その通りで、妙なところに明かりがついているのが気になり、様子を見に来たらしい。
「ところで、こんな夜更けに一体何をしておられたのですか?」
「えっと……それは……」
マスターは口ごもった。理由を話したら彼に幻滅される気がしたのだ。
しかしマスターらしからぬ格好悪い姿を見せた挙げ句心配までさせてしまった手前、彼には正直に話さなければいけないとも思った。
「ダンスの、練習をしていました……」
「ダンス? 何故そのようなことを?」
マスターはアレクサンドルにこうなるに至った経緯を説明した。
先日、日頃から世話になっているシンパからパーティーの招待状が送られてきた。レジスタンスのために邸で盛大なパーティーを催してくれるそうだ。マスターは貴銃士たちと共に参加することになったのだが、一つだけ気がかりなことがあり素直に喜ぶことはできなかった。
以前別のパーティーに参加した時、マスターはダンスのせいで恥ずかしい思いをしたのである。
もともと社交界という場所とは無縁の生活をしていたマスターにとって、ダンスはお伽噺に出てくるもとしか思っていなかった。マナーもステップも知識としてはあったが実践するレベルには程遠かった。そんな状態であるにもかかわらず誘われるままダンスホールに出てしまったものだから、相手の足は踏むわ、ステップは間違えるわ、躓いて転ぶわで散々だったのである。皆、仕方がないと慰めてくれたが、もう二度とあのような失態は見せられないとマスターは心に誓った。
今度はちゃんとした姿を見せたい。その一心で、夜な夜な誰も見てないところで一人で練習をしていたのである。
「そうでしたか……」
話を聞いていたアレクサンドルはそう呟き、何かを考え込むように無言になった。やはりダンスすらまともにできないマスターだと思われてしまったのだろうか。
恐る恐る上目遣いで彼の表情を盗み見る。ふと目が合うと、彼は目を細めて微笑んだ。
「ご心配はいりませんよ、マスター」
言うと、彼は荷物を置き、外套を脱いだ。
外套に隠されていた見慣れた服は多少汚れてはいるものの目立った損傷はなく、彼が無事に任務をやり遂げたことを裏付けていた。
「マスター、お手を」
何やら準備を終えたようで、アレクサンドルが手を差し出した。
「手?」
「ダンスはペアで行うものです。ですから、私にお相手を務めさせていただけないでしょうか?」
「お相手……って、駄目です! 帰ってきたばかりなのにこんなことにお付き合いさせるわけにはいきません」
「ご心配には及びませんよ。一晩踊る程度の体力なら残っておりますから」
「そういうことではないんです。もっとご自身の時間を有効に使ってくださいと言っているんです」
マスターは荷物を全て回収すると、それをアレクサンドルの胸に押しつけた。早く宿舎に戻って休んで欲しいと頼むが、アレクサンドルは荷物を受け取ろうとはしなかった。
「ありがとうございますマスター。ですがあなたの言葉に従うのなら、尚更荷物を受け取るわけにはまいりません」
「どうしてですか?」
「あなたと過ごす時間が欲しいからです」
一点の曇りもない目をこちらに向け、彼は躊躇なく言った。
自然と荷物を抱える手に力が入ってしまう。胸の高鳴りを抑えるように、マスターは荷物を力強く抱き締めた。
「私にとってマスターと二人きりでいられる時間は何ものにも代え難いものです。一秒でも長くいられるのなら、喜んで私の時間をマスターに差し上げましょう」
彼の言葉にどう応えていいのかわからず、マスターはただ顔を熱くするしかなかった。僅かな明かりの下では顔が火照っていることなど彼には伝わらないだろうが、思わず荷物に顔を埋めてしまう。
「時間は有限だからこそ、大切な方のために使いたいのです。それとも、マスターは私の至福の時間を奪ってしまうような酷い方なのですか?」
完敗だ。こうまで言われてしまっては意地を張って拒絶することはできない。マスターは諦めて荷物をもとの場所に戻し、彼の手に自分の手を添えた。
「……足を踏んでしまうかもしれません」
「構いませんよ」
ダンスの見栄えをよくするならまず基本姿勢からだと、促されるまま彼の手を握る。左手は彼の右腕に添え、掴まないよう注意した。慣れない姿勢のせいでよろけそうになるが、背中を支えられているのでなんとか姿勢を保つことができた。
「ダンスの善し悪しは男性が上手くリードできるかで決まります。リードが上手ければ女性が躓いたり、足を踏むこともありません」
「そうなんですか?」
「ええ。そして踊る時はステップを踏むのではなく〈歩く〉ことを意識してください」
「歩く?」
「難しいことではありませんよ。男性のリードに合わせるだけでよいのです」
「合わせるだけ……やっぱり難しい気がします」
「習うより慣れろとも言いますから、まずはやってみましょう」
コツリと軽くアレクサンドルの膝が足に当たる。それを避けるように足を一歩退くと、今度は逆の足に重心がかけられたのを感じ、ぶつかる前に後ろに避けた。するとすぐに右腕を引っ張られた気がし、その方に足を移動させた矢先、くるりとスカートが波を打ち、いつの間にかアレクサンドルと立ち位置が変わっていた。
微笑む彼に誘われるように一歩、二歩と彼について歩き、またスカートの裾を靡かせる。それを何度も繰り返している内に段々と楽しくなり、意識せずとも身体が彼に合わせて動くようになっていった。
「お上手ですよマスター」
ここには美しい音楽を奏でる楽団はいない。ダンスを彩る音もない。あるのは夜風の囁きと、星々の瞬きだけである。
けれどそれだけで十分だった。音楽はいつか鳴り止んでしまうが、なければそれだけ長く彼と手を取り合っていられるのだから。
「あの、アレクさん」
「なんでしょうか」
「実はアレクさんに初めてお会いした時、アレクさんは冷たい方だと思っていたんです」
「そう、だったのですか……初耳です……」
「誰にも言っていませんから」
一瞬動きが鈍くなったアレクサンドルの手を引き、マスターは大きくターンをした。
「初めてアレクさんを見た時、えっと、上手く言えないんですけど、氷の彫刻のような方だと思ったんです。だから仲良くなれるか不安だったんです」
添えた右手が、少しだけ強く握られる。応えるように、マスターも手を握り返した。
「でも実際のアレクさんはとてもお優しくて、温かくて、全然最初の印象と違っていて。今は一緒にいるだけで穏やかな気持ちになれるんです」
笑いかけると、不安げだった彼の顔が綻んだ。こうして感情が顔に出やすいところも彼の魅力の一つである。
「アレクさん」
「はい」
「ここの生活は楽しいですか?」
「ええ、とても」
偽りのない返事に、胸の奥がじんと温かくなる。自分がそうであるように、アレクサンドルも心穏やかに過ごしてくれているのなら、マスターとしてこれほど嬉しいことはない。
「わたしも、アレクさんと一緒にいられる時間がとってもとっても大好きです」
直後、前に出した足がアレクサンドルの足と衝突し、身体がのめり込むように前方に傾いた。アレクサンドルならすぐに体勢を立て直すか、あるいは受け身を取るなどできるだろうと思ったが、何故か彼は硬直したまま後ろに倒れていった。彼に身を預けていたマスターも、引っ張られるように一緒に倒れた。
痛みはなかった。咄嗟に彼が身体を抱いて庇ってくれたお陰で掠り傷一つつかなかった。
その分クッション代わりとなったアレクサンドルのダメージは大きかったようで、彼は痛みで顔を歪めていた。
「大丈夫ですかアレクさん! どこが痛いですか⁉ すぐに治しますから!」
マスターはアレクの傷を治すために薔薇の傷を隠している手袋を外そうとした。
が、それをアレクサンドルが手袋ごと手を握って止めた。
「大丈夫です。少し身体を打っただけですから」
彼は心配ないと言いながら身体を起こした。大丈夫と言う割には眉間には深い皺ができており、マスターは傷がない方の手で彼の背中を擦り、痛みを和らげた。
「ごめんなさい。わたしが間違えてしまったせいで」
謝ると、アレクサンドルは首を横に振った。
「マスターのせいではありません。これはその……私の足が縺れてしまったせいなのですから」
「足が? やっぱりお疲れだったんですね。ごめんなさい。こんなことに付き合わせてしまったばかりに」
「違うのですマスター。足が縺れてしまったのは……驚いてしまったからで……」
「何に驚かれたんですか?」
尋ねると、彼は答えづらそうに視線を泳がせた。何か嫌なものでも見てしまったのだろうか。
「……今夜は、月が綺麗だと」
「月、ですか」
月が綺麗なだけでそんなに驚くものかと不思議に思いながら空を見上げた。
夜空を見て、マスターは息を飲んだ。
黒い空に、大きな白い月が浮かんでいた。真珠のような月はどの星々よりも美しく、強く、けれども優しい光で暗い世界を照らしていた。
それはまるで——
「アレクさんみたいですね」
「え? 私、ですか?」
「はい。アレクさんの髪と同じ色をしていてとっても綺麗です」
突然綺麗と言われ戸惑いつつも、彼は照れ笑いを浮かべ
「ありがとう、ございます」
と、言った。
風が吹き、アレクサンドルの髪が月の光を反射しながら靡く。細い髪を走る光はまるで宝石が零れているようで、見惚れてしまうほど幻想的で美しかった。
「マスター」
身体の痛みはもう消えたのか、彼は立ち上がり、再びマスターに手を差し出した。
「もう少し、あなたの時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
その言葉の意味は……
考える必要はなかった。彼がそう思ってくれている。いや、彼もそう思ってくれている。それだけわかればいい。
いつになく高鳴る鼓動を感じながら
「はい!」
マスターはアレクサンドルの手を握った。
淡い月の光の下に、寄り添う二つの影が映る。二つの影は離れることなく、時の流れを忘れてしまったかのように白月に見守られながら、光の中で踊り続けた。