その日の厨房は甘いバターの香りで満たされていた。
焼き上がったばかりのカップケーキは自画自賛したくなるほどの出来映えだった。設備が古いせいもあって加減が難しく焦がしてしまうことがあるのだが、目の前にあるそれは食欲をそそる黄金色だった。
粗熱をとっている間に湯を沸かし、ティーセットを用意する。トレーに乗せたのはカップ、ソーサー、ケーキ皿などをそれぞれ二つずつ。普段なら共同で使用しているブリキのカップや自分のカップを使うのだが、今日は特別に陶器のものを用意した。
ティーポットにエンフィールドから貰った茶葉を入れる。そして沸いた湯をケインから教わった【美味しい紅茶のいれ方】で入れた。
昇る白い湯気と大好きな香り。少し蒸らせば、ちょっと贅沢な紅茶の完成である。
最後にカップケーキを焼いている間に作っていたクリームを絞り袋に移し、円を描きながらカップケーキの上にデコレーションする。更に季節のフルーツやチョコチップを——と、いきたいところだったがそれらは買い揃えていなかったので至ってシンプルな仕上がりとなった。
トレーを持って足早に、けれど落とさないよう慎重に、ある部屋へ向かう。
宿舎はいつもより静かだった。恐らく大半の貴銃士とレジスタンスの者が外へ出払っているからだろう。
偶然にも彼とマスターだけを残して。
部屋の前に来ると、念のためドアプレートを確認し、ノックをする。
これを見たら喜んでくれるだろうか。マスターは胸を躍らせながらドアが開くのを待った。
・・・
曇天の朝。
肌に張り付くような湿気の不快感で目を覚まし、軋む埃だらけのベッドから身体を起こす。
床に散らばる壊れた玩具たち。持ち主がいなくなってからだいぶ時間が経っているようで、埃と塵が積もっていた。
玩具を避けながら歩くと、それに合わせて埃が舞う。雪原を歩いたかのように木の床に足跡が残るのを見ると、物寂しさを感じずにはいられない。
背の低いチェストの上には砂塵で汚れた写真立てが置かれていた。表面の塵を払うと、幸せそうに笑う親子の姿が現れる。
背の高いハンサムな父親と、優しそうな母親。二人の間にいるのは毛の長い猫を抱えた幼い少女。ここに辿り着いた時は暗闇の中で全く気付かなかったが、どうやら少女の部屋を一晩借りていたようだ。
部屋を勝手に借りたことを詫び、写真立てを元の場所に戻す。部屋を勝手に使おうが、写真の場所を変えようが文句を言う者はここにはいないが、この場に詰まった大切な思い出を壊したくはなかったので、自分が触れたものは可能な限り元の状態に戻した。
窓から見える灰色の空はどこまでも広がっていた。どんなに目を凝らしても厚い雲の終わりが見えない。まるでこの先の、自分の未来を示唆しているようだった。
——早く行かないと。
携帯していたショートブレッドを一つだけ口に入れてさっさと朝食を済ませると、床に置いていたバッグを肩にかけた。荷物の重さで一瞬よろけるが、クローゼットに手を突いて身体を支えた。
するとその拍子で、クローゼットに立てかけていた物が倒れかけた。
しまったと、急いで手を伸ばしてそれを掴む。布に包まれたそれは大切な預かり物なので、壊すわけにはいかない。
預かり物を両手で抱え、ありがとうと言って子供部屋を出る。
戦いに巻き込まれる前は穏やかに暮らしていたのだろう。廊下に飾られている家族写真からそれが伝わってくる。この笑顔が奪われた瞬間は、とても想像したくない。
外に出ると、出発する前に一度家に向き直り、深く頭を下げた。当たり前だが、見送りの挨拶は返ってこなかった。
この街には誰もいない。戦争で徹底的に破壊された廃墟の街だ。天災に遭ったのかもしれないが、ミルラを落とされ廃街となった故郷に似ているので可能性は高いだろう。
世界帝によるレジスタンスの大粛正により、故郷、家族、友達——持っていたものを全て失った。
代わりに得たのは悲しみと恐怖と怒り。
そして、手に刻まれたバラのような傷。
故郷のことを思い出すと、包帯の下に隠した傷が僅かに痛む。まるで永遠に逃れられない呪いを刻まれたようで良い心地がしない。
ふと、遠くから物音が聞こえ、足を止める。
地面が小刻みに揺れていた。足下の小石が跳ねて音を鳴らす。
地震ではない。それとは違う小さい振動だ。
「っ……!?」
遠くに振動の発生源を捉え、急ぎ物陰に身を潜める。
——どうしてこんな所に?
足が竦み、その場にしゃがみ込む。
激しく動く心臓が氷のように冷たい血液を全身に巡らせ、体温を奪っていく。深呼吸をして落ち着こうとするが、上手く呼吸が出来ず息苦しさだけが増していった。
地面を揺らし、誰の許可を得ることもなく街を横柄に走っていたのは世界帝軍の軍事車両だった。それも一台だけではない、二台、三台と続いている。
この街には何もない。人は消え、建物は壊され、価値ある物は全て盗まれ、何も残っていない。そんな街に一体何の目的で来たのだろうか。
——逃げないと。
やり遂げなければいけないことがある。だから捕まるわけにはいかない。それに手ぶらならいいが、今手元には例の預かり物がある。これを世界帝軍に見られてしまったら、命はないだろう。
逃げなければ死ぬ。殺される。
頭の中ではわかっていた。けれど身体は恐怖で凍りつき、動かなかった。子鹿のように震えるばかりで、立ち上がることすら出来ない。
笑えない話しだ。世界帝と戦うと決意し、世話になった人達のもとを飛び出してレジスタンスに加わったばかりだというのに、いざ世界帝軍を前にすると指一本動かすことすら出来なくなるなんて、笑えなさすぎて笑ってしまう。これでよく戦おうと思ったものだと、嘲笑せずにはいられない。
「あったか?」
「いや。向こうを探してみよう」
世界帝軍兵士の話し声が聞こえ、息を止める。
小石を蹴る二つの足音。それは確実に、ゆっくり、こちらに近付いていた。
ここに留まってはいけない。早く逃げなければ。逃げるなら、まだこちらに気付いていない今しかない。
悲鳴を上げそうになる唇を強く噛み、物音を立てないよう静かに立ち上がる。足の震えがおさまらずまた座り込んでしまいそうになるが、壁に背を預けて何とか姿勢を保つ。
胸に手を当て、呼吸を整える。今なら大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせる。
そして大きく息を吸って、短く止め、脱兎の如く走り出した。
その直後、一秒すら経っていない僅かな差で、ショルダーベルトの金属部が壊れ、椿のように鞄が地面に落ちた。
「誰だ!?」
物音に気付いた兵士が叫ぶ。
荷物と命は天秤にかけられない。荷物は捨て置き、預かり物だけを抱えて走った。
振り返る余裕はなかった。確認したところで【追われている】という事実が覆ることはないのだから。今はただひたすら、迫り来る複数の足音から逃げるしかない。
足は速い方ではない。体力もない。いつまで走り続けられるのかなど、自分でもわからない。
とても道とは呼びがたい障害物だらけの道を真っ直ぐ、時には蛇行しながら駆け抜ける。
後方の足音が一つずつ増えていく度、恐怖心が更に煽られる。
どこかに身を隠せる場所はないだろうか。しきりに目を動かし、避難出来そうな場所を探す。
徒歩による長距離移動の疲れも相まって、体力は早々に尽きようとしていた。恐らくこのままでは逃げ切れないだろう。逃げ果せる前に捕まる可能性の方が圧倒的に高い。ならばどこかに隠れてやり過ごした方が生存率は高い。一日、二日我慢して隠れていれば、彼らも諦めて街を去るだろう。
——あそこ!
進行方向に威風堂堂と建つ巨大な建物。無事というわけではいようだが、他の建物よりは被害が少ないように見える。
ここなら隠れる場所がありそうだと、力を振り絞って壊れた石の大階段を駆け上がる。
幸運にも扉は開いていた。飛び込むように中に入ると、急いで扉を閉める。
時間稼ぎ程度にしかならないだろうが、落ちていた木の棒を閂の要領で扉の取っ手に滑り込ませた。いくつも棒状の物を集め、隙間がなくなるまで取っ手の間を埋めていく。
追い着いてきた兵士が扉を強く叩く。だが幾重にも重なった棒が彼らの侵入を阻んだ。
隠れるなら今の内だ。隙間から差し込む僅かな光を頼りに建物の奥に走る。
彼らは暫く足止め出来そうだが、それも時間の問題だ。世界帝軍は一般市民の手には渡らない様々な物を持っているらしいので、油断しているとすぐに追い着いてくるだろう。
辺りを見回しながら隠れられそうな場所を探す。一先ず逃げ切れたという安心感もあり、少しだけ状況を把握する余裕が出来ていた。
どうやらここは美術館らしい。様々な石膏像や絵が飾られている。戦争中に多くの名画が盗まれたという話しを聞いたことがあるが、ここのは多少壊れていたり汚れてはいるが、一応無事のようだ。
ゆっくり鑑賞したいところだが今はそれどころではない。少し惜しいが、足早に移動する。
建物の構造上、隠れられそうな場所を見付けるのは困難だった。スタッフ用の事務所や控え室などに入れればいいのだが、どこも扉があっても鍵がかかっていて開けることが出来なかった。
逃げ込んだのはいいが隠れる場所がない。途方に暮れ、近くの椅子に力なく座った。
どうしたらいい。出入口は自分で塞いでしまったので外には出られない。館内は見通しが良すぎて隠れられない。随分と広い建物のようだが逃げ回るには狭すぎる。
他に出来ることといえば——
「戦う……?」
預かり物を撫で、呟いた。
隠れることも逃げることも出来ない。そのような状況になったらあとは戦うしかない。必死に足掻いて、敵を打ち負かすしかない。
だがそれはすなわち、自分の手で相手を殺すということだ。殺さなければ殺される。それがこの世界のルールだ。
世界帝は故郷を奪った。家族を奪った。友達を奪った。世界帝も、世界帝に従う者達も十分殺すに足りる相手だ。躊躇する理由はない。
——それでも。
もしも誰も傷付かない方法があるとすれば。誰も死なせずに平和的に解決出来るのなら。それが一番自分が望んでいることである。
傷付けたくない。殺したくない。戦う道を選んだにも関わらずこんな考えでは他の者から甘いと言われるだろう。愚か者だと嘲笑われるだろう。
けれど戦うと決めた。死んだ家族や友人の為ではなく、自分の意志で、自分の為に戦うと決めた。
後悔などしたくない。悲しい思いもたくさんだ。
破壊された故郷に戻ったあの日、一生分の涙を流し、喉が潰れるまで叫び、そして誓った。
大切なものは、自分の手で守る、と。
意を決し、固く結ばれた紐を解く。目的地に着くまでは絶対に解いてはけないと言われていたが、躊躇なく厳重に巻かれていた布を剥いだ。
この街に立ち寄る以前、ある街に拠点を構えるレジスタンスに少しの間だけ身を置いていた。不慣れな生活で失敗ばかりしていた自分にも優しくしてくれた、とても素敵な人達のいる場所だった。
そこが世界帝軍に狙われているとわかったのはメンバーが解散する二日前のことだった。
街に留まることが出来なくなった彼らは散り散りに別の基地に移ることになった。自分も例外ではなく、リーダーに『恭遠・グランバードを頼れ』と紹介状と基地までの地図を渡され、何もわからないまま街から放り出されてしまったのだ。
その時、リーダーから恭遠・グランバードに渡して欲しいと託されたのがこの預かり物だ。
木と金属という相反するものが調和する、古い時代の置き土産。
人はこれを古銃と呼ぶそうだ。
古くても銃は銃。きちんとメンテナンスされているらしく、すぐに使うことが出来るとリーダーは言っていた。
銃など使ったことはない。だが対抗出来る手段はこれしかない。この銃に全てを託すしか助かる道はない。
後悔しないために。
未来を切り開くために。
——お願い、わたしと一緒に戦って。
愛おしい人にそうするように銃を抱き、願った。
刹那——
淡い光が指から零れ落ち、銃を包み込んだ。
「っ……!?」
不可解な現象に思わず息を飲む。
天井の明かりは灯っていない。外から光が差し込んでいるわけでもない。外部の影響ではなく、間違いなく光は銃自身から発せられているものだった。
夢でも見ているのだろうか。恐怖のあまり幻覚を見ているのだろうか。不思議に思いつつも、光に魅入ってしまう。
恐くはなかった。寧ろ温かく、とても心地が良い。誰かに手を握られているような、優しい温もりが伝わってくる。
増していく胸の高鳴りは未知との遭遇による興奮か。それとも——
「っ!」
銃が纏った光が強くなり、視界を一瞬で白く染めた。その眩しさに耐えられず、堅く瞼を閉じる。
そして瞼越しに光が消えていくのを確認すると、恐る恐るゆっくりと目を開けた。
と、同時に、視界に飛び込んできたものを見るなり驚いて銃を床に落とした。
わかった。これは夢だ。結論付け、両頬をつねる。が、じわりと痛みが広がるだけで、目の前のもの……否、人物は消えなかった。
「雑に扱うな。壊れるだろ」
そう戒めると、【彼】は銃を軽々と拾い上げた。
暗闇に目が慣れたとはいえ、はっきりその姿を捉えることは出来なかった。ぼんやりと浮かぶシルエットと声から、若い男性だろうということは判断出来た。
一体何処から現れたのだろうか? 隠れていた美術館の従業員? ただの避難民? 世界帝軍の関係者……ではなさそうだが、何者なのだろうか。
「あなたは、だ——」
誰なのか。尋ねようとしたが、邪魔をするように一発の銃声が館内に響き渡った。
入口の方向から幾つもの光が迫ってくる。先のような光ではない。人工の明かりだ。
もう少し時間が掛かるだろうと思っていたが、誤算だった。予想よりも遥かに早く彼らは扉を破壊したようだ。
先の銃声は中にいる自分への威嚇と警告だろう。逃げ場はない。見付け次第撃つ、というメッセージだ。
謎の光と青年に呆けている場合ではない。
「お、おい!」
青年の手を掴み、美術館の更に奥に向かって走った。
疲労が溜まってきたのだろうか。先よりも身体が重い。足が言うことを聞かず、何度ももつれそうになる。
「どこに行く!? 状況を説明しろ!」
わけもわからず走らされている青年が叫ぶ。
説明する時間と余裕はなかった。そもそも息をするので精一杯で声を出すことが出来なかった。
出来ることは一つ。絶対に青年の手を離さず逃げることだけだ。
幾つかの展示室を抜けると、点々と光が差し込む広い展示室に出た。壊れた天井画から入る外の光が室内に僅かだが光を灯している。
そして、二人は足を止めた。いや、止めるしかなかった。
「……嘘」
次の展示室へ続くと思われる大きな扉。その扉は、展示物である巨大な石像と天井画の残骸によって塞がれていた。
辺りを見回し、他に逃げ道がないか探す。だが、あるのは神々を模した石像ばかりで、道は自分達の後ろにしかなかった。
兵士達の足音が聞こえ、二人は急ぎ石像の後ろに身を隠した。
気力だけで支えていたがとうとう限界に達し、足の力が抜けて床にへたり込む。襲い来る疲労感で、もう立てそうになかった。
「おい、しっかりしろ」
掠れる視界に、美しい金色が揺れる。こちらを真っ直ぐ見つめるターコイズブルーの瞳も、宝石のようでとても綺麗だった。
最後に美しいものを見て死ねるなら幸せか。薄れていく意識の中でぼんやりと思った。
目を閉じよう。少しだけ眠ろう。もう疲れた。眠りたい——
意識が闇の中に誘われる。
が、深い眠りに落ちる寸前、頭部に痛みが走り目を覚ました。
「痛い……」
「こんなところで寝ようとするからだ」
青年は微かに赤くなった額を擦りながら言った。
「目、覚めたか?」
「はい、たぶん……」
「じゃあ端的でいいから状況を説明してくれ」
青年に詰め寄られ、端折れるところは極力端折って自分が置かれている状況を説明した。だいぶ支離滅裂な説明になってしまったが、彼は頷きながら話しを聞いていた。
そして銃が光って彼が現れたことを説明しようとした時、複数の銃声が石を砕いた。
背後に兵士達の気配を感じる。恐らくこの街に来た兵士が全員集まっているだろう。
あちらは複数。対してこちらは二人。それも一人はレジスタンスとは無関係の人間だ。逃げ場もなければ勝ち目もない。完全にお手上げである。
——でも、やり遂げないと。
希望はまだ残っている。目の前の青年が、残された最後の希望を握っている。
何故だろうか。自分は駄目だが、この青年なら出来る気がした。理由も根拠もない。出会ったばかりで彼のことなど微塵も知らないが、それだけは確信していた。
「これを」
肌身離さず隠し持っていた密書が同封された紹介状と路銀を青年に手渡す。
「ここから更に南に行くとレジスタンスの基地があります。そこにいる恭遠・グランバードさんという方にこれとその銃を渡してください」
「は?」
「その銃は古い物ですが十分使えるように整備されています。それを使ってここから逃げてください」
「逃げてくれって、俺一人でか? おまえはどうすんだ?」
「わたしは……」
震える足を叩いてからゆっくり立ち上がり、告げる。
「あなたが無事に逃げられるよう、囮になります」
恐れている場合ではない。彼が逃げられるよう手助けをしなければ。彼が逃げて、密書を届けてくれれば、それだけで今まで生きてきた意味があったというものだ。
「死ぬつもりか?」
「それであなたが助かるなら」
戸惑う彼の手を取り、今出来る最高の笑顔を作る。
「どこのどなたなのか存じませんが、最後にあなたを守らせてください」
再び銃声が鳴り、こちらをあぶり出すように石像を破壊していく。じわじわと追い詰めて相手の恐怖心を限界まで煽り、いたぶる。それが世界帝軍のやり方だ。
だがもう屈しない。やるべきことは決まった。
恐れなど捨てて、立ち向かうだけだ。
「……わかった」
青年は短く言うと。
手渡された密書と路銀を投げ捨て、敵前に向けて走り出した。
「待って!」
慌てて彼に手を伸ばすが、指先は彼の服に掠ることもなく虚空を掴んだ。
いくら武器を持っているとはいえ、単身で真っ正面から衝突するのは危険極まりない自殺行為だ。勝算があるのは自分が囮になった場合であって、一人で戦ったところで犬死にするだけである。
今からでも囮になって助けなければ。石床を蹴って、彼を追うように敵に身を晒した。
けれど一歩。彼に近づく為の一歩が踏み出せなかった。銃口を向けられていると認識してしまった瞬間、本能が足を止めてしまった。
遠ざかる勇気ある背中。
レジスタンスが必要としているのはきっと彼のような人間だろう。強くて、何者にも屈しない心。それを持っていれば、彼よりも早く敵の前に立てたのかもしれない。
伸ばした手の包帯が解け落ちる。知らない間に傷が開いていたようで、白い包帯に赤色が染みついてた。
「えっ……?」
目の当たりにした傷痕の変化に、声をもらした。
輝いていた。醜いと思い続けていたバラの傷が、眩い輝きを放っていた。
それと同じく、青年の身体も光に包まれていた。銃が放っていた光とは比べものにならないほど強く、気高く、輝いていた。
この光は一体何なのだろうか。何が起きているのだろうか。考えたいことがたくさんある。
だが、それは後回しだ。
「いっけぇー!」
腹の底から、想いと希望をたった一言に乗せ、力の限り叫んだ。
彼が纏う煌めきが一層強くなる。縦横無尽に描かれる光の一線は、瞬きを忘れるほど美しく、息をすることすら忘れそうだった。
銃口から放たれる光が、次々と兵士を打ち倒していく。兵士達も打ち返すが、彼は床や壁を蹴り、容易くそれを躱していた。
彼は壊れた石像を踏み台にして高く飛ぶと、見上げる兵士達に銃口を向けた。
彼の周りに光の銃が現れる。引き金を引くと、無数の光が流星群のように降り注いだ。
室内が光に満たされると、耳障りだった銃声がぴたりと止んだ。
・・・
夢でも幻でもないもの。それは一般的に奇跡、と言うのだろうか。眠る青年の頬を撫で、考えた。
光が跡形もなく消え去った後、青年は世界帝軍兵士の骸と共に倒れていた。何をしたのかという説明もなく、寝息を立てていた。
自分が見た光景は何だったのだろうか。冷静になった今も、結論が出ずにいた。
一般常識の範囲内では決して説明出来ない。何もかもが嘘のようで、けれど手の傷と彼の感触と温かさが、現実であると知らしめてくる。どうやら、全てを真実として受け止めなければならないようだ。
「……ん」
意識を取り戻し、青年が瞼を開いた。何度か瞬きをしてから、ターコイズブルーの瞳をこちらに向けた。
「おはようございます」
「ああ……おは、よう?」
久しぶりに交わした挨拶。他者に「おはよう」と声をかけたのは何日ぶりだろうか。それが少し嬉しくて、笑みが零れた。
「気分はどうですか? 痛いとか苦しいとかないですか?」
青年は身体を起こすと否定するように首を振った。
「俺は平気だ。それよりおまえは、怪我とかなかったか?」
「わたしも大丈夫です」
「そうか、ならいい」
安心したのか、彼は僅かに微笑んだ。だがすぐに帽子を深く被り、顔を背けた。
「あの……助けてくださりありがとうございました。あなたのお陰でわたしは命を失わずに済みました。本当にありがとうございます」
深々と頭を下げ、感謝を伝える。本来なら言葉だけで済ませられるものではないが、何も持っていない現状ではこれが精一杯だった。
「別に礼を言われるようなことはしてない。俺はただ、当たり前のことをしただけだ」
ぶっきらぼうに、けれど優しく、彼はそう返した。
「当たり前?」
「ああ」
「戦うことが、ですか?」
「まあ、正確には少し違うけどな」
「違う?」
「おまえが『守らせて』って言った時、なんか、それは違うだろって思ったんだ。守られるのは俺なのかって。それで……」
話しながら、彼は様子を窺うようにこちらを見て、すぐに目を伏せた。
「逆だろって。騎士道に従い、俺がおまえを守らないといけないんだ。そう思ったら、勝手に身体が動いて、気が付いたら戦ってた」
「気が付いたら……? あの光はあなたが自分の意志で使ったものではなかったんですか?」
「それもよくわからない」
「わからない、ですか……」
「仕方ないだろ! おまえを守ることしか頭になかったんだ! それに女を囮にして自分だけ逃げようなんて、騎士以前にお、男として恥ずべきことだ!」
と、彼はムキになって言い返した。
直後、頬を紅潮させ、そっぽを向いた。
「……あの光は、おまえの方が詳しいんじゃないか?」
「え?」
「俺を呼び覚ましたのはおまえだろ? だったらおまえが知らないはずないよな?」
尋ねられるが、彼の問いが理解出来ずただただ首を傾げた。
「えっと……誰が、誰を呼び覚ましたんですか?」
「は? だから、おまえが、俺を、ここに呼んだんだろ?」
答えようがなく、唇を結んだ。
「まさか、身に覚えがないとか言わないだろうな?」
「ごめんなさい全く身に覚えがないです」
即答した。
「はぁ……」
眉をつり上げ、彼は深々と溜息を吐いた。
「怒ってますか?」
「怒ってない。ただ、この先おまえの面倒を見るのは大変だと思っただけだ」
この先? 面倒を見る? 彼の言葉一つ一つが頭に引っ掛かる。
「それは、どういう意味なんでしょうか?」
「おまえに自覚がなくても俺を呼び覚ましたのは紛れもなくおまえだ。だからお前を守る為に戦うし、面倒も見てやる。そういうことだ」
——そういうことってどういうことですか?
喉から出かかったが、飲み込んで腹の中に戻した。揚げ足を取ると、彼は酷く面倒な気がするのだ。
「えっと、つまり、レジスタンスの基地まで一緒に来てくれるということですか?」
「そうするしかないしな」
「基地に着いてからは?」
「おまえが留まるなら俺もいる。出て行くなら付いて行く」
騎士なんだから当然だろ。と、彼は鼻を鳴らした。
言っていることの半分くらいしか理解出来なかったが、取り敢えず付いてきてくれるというなら有り難い話しだ。またいつ世界帝軍と遭遇するかわからない。彼に頼るつもりではないが、傍にいてくれたら心強い。一人では無理でも、二人なら出来ることは多いのだから。
何より、旅の道連れは多い方が楽しい。
スカートの埃を払って立ち上がり、彼に手を差し出した。
「では、よろしくお願いします。えっと……」
長々と話をしていたが、肝心なことを聞き忘れていた。今更名前を訊くのも失礼な気がし、言葉が詰まる。
すると察したように、彼はこちらに向き直り、片膝を付いて、差し出した手を取った。その姿は物語に出てくる騎士そのものだった。
「俺はブラウン・ベス。かの大英帝国を築いた名銃だ」
「名銃?」
「ああ」
「銃って、まさかあの銃ですか?」
台座に立てかけている銃を指差し、尋ねた。
「他に何がある?」
血液型を答えるように彼はさらりと言った。
人間ではなく銃。だが姿は銃ではなく人間。とんでもない告白に、目眩を起こしそうだった。
「ったく、本当に先が思いやられるな」
彼は呆れたように言った。けれどその表情は柔らかく、穏やかだった。
それから彼は小さく微笑み、目を閉じた。そして手を自分の口元に運ぶと。
バラの傷に唇を落とした。
彼が触れている指先、傷痕から、全身に熱が駆け巡る。多く跳ね上がった心臓がそれを更に助長し、胸を押さえても止めることが出来なかった。
これはただの挨拶だ。幼い頃からずっと経験してきた、他意のない行為である。
わかっている。わかっているのだが。
顔が熱くなり、目尻に涙が溜まる。恋人や片思いの相手でないにも関わらず、恥ずかしさのあまり視線を泳がせてしまう。
「どうした?」
「い、いえ! 何でもないです何でもないです。気にしないでください」
慌てて手を引っ込めて彼に背を向け、誤魔化すように口笛を吹いた。かすかすと空気がもれるだけで全く吹けていなかったが。
それにしても大変なことになった。大事な預かり物が人のようになってしまい、自分に仕えると言っている。これを恭遠・グランバードに何と説明したらいいのだろうか。本来なら恭遠に彼を預けるべきなのだろうが、それはきっとブラウン・ベスが納得しない。
——取り敢えず話してみて、駄目だったら駄目でまた考えればいいか。
目的に着かない限りいくら考えても話は進まない。スカートを翻し、来た道を戻る。
「お、おい! 行くならそう言え」
ブラウン・ベスが焦ったように靴を鳴らした。
壊された入口をくぐると、広がる景色に目を見開いた。
青空。雲一つない澄み切った青い空が広がっていた。二人の凱旋を讃えるように、温かい風が頬を撫でた。
空が語っている。希望はまだあると。望む未来がこの先にあることを。
「行くか、マスター」
「はい!」
ブラウン・ベスに手を引かれ、一歩一歩、光ある世界へ歩みを進めた。
・・・
ノックをしてから数秒後、部屋の主がドアを開けた。
どうかしたのかと尋ねる彼に、満面の笑みでティーセットを見せる。一緒にティータイムを楽しみたいと言うと、彼は快くマスターを部屋に迎入れた。
今日は何の日だと思う? マスターが尋ねた。
さあ? 彼は首を傾げた。
陽はまだまだ高い位置にある。
仲間達の戻りも、早くて日没過ぎだろう。
お茶を飲みながら語らう時間はたっぷりある。
だから話そう。これまでとこれからの話を。
「今日はね——」
特別な日。
はじめてマスターになった、一番大切な日。