小さな頭を重ねてドアの隙間から中を覗き見るなり、二人はクスクスと笑った。
ニコラとノエルが見ているのは憎らしく、そして滑稽な男の背中。大きな溜息と共に肩を沈ませたラップの姿は、二人にとって愉快極まりなかった。
悪戯を仕掛けたのはほんの一時間前。ラップが部屋から出て行った隙に彼の持ち物に悪戯をしたのだ。先日自分達を置いてナポレオンとマスターと三人で任務に出掛けた、その腹いせである。
「ラップのやつ、すっごい落ち込んでる」
「うん、やったねニコラ」
二人は音を立てないよう静かに手を叩いた。
はずだった——
「ニコラ、ノエル。そこにいるのはわかっていますよ」
ドアに背を向けたままのラップに名を呼ばれ、二人は肩を震わせた。絶対に見付からないよう細心の注意を払っていたつもりだったが、どうやら彼には通用しなかったらしい。
ラップは二人を部屋に入れると、少し廊下に目を配ってからドアを閉めた。ドアを背に立つ彼の顔には明らかに怒りの色が見た。
「ねえ、ニコラ……」
「うん……」
悪戯をすると彼はいつも気を悪くし、二人を叱る。いつも、いつも、それは変わらない。だから今日もいつも通りだろうと二人は思っていた。
だが彼の様子はいつもと違っていた。二人を見下ろす冷たい眼差しは、戦場で世界帝軍に向けるそれと似ていた。
「これをやったのはあなた達ですね?」
ラップは握っていたハンカチを広げた。
真っ白なハンカチに黒いインクで大きく書かれた『ラップのバーカ』という文字。間違いなくニコラとノエルが書いたものである。けれど二人は気圧され、そうだと言えなかった。
「答えなさい。ニコラ、ノエル」
怒鳴らず、静かに、揺さぶるように問う。
「お前が悪いんだからな! ぼくたちを基地に置き去りにして!」
「ラップばっかり陛下とマスターと一緒なんてずるい」
謝るより先に出てきたのは言い訳と文句。
反省の素振りすら見せない彼らに、ラップは呆れたように深々と息を吐いた。
「いいですか二人とも。このハンカチは私の物ではありません」
「えっ!?」
彼の言葉に、二人は驚きの声を上げた。彼の机に置かれていたので当然彼の持ち物だろうと思い込んでいたからだ。
「このハンカチはマスターからお借りした物です」
先日の任務中に立ち寄った街で、ラップは食べ物を持っている子供とぶつかってしまったらしい。幸い子供に怪我はなかったが、服にはその子が持っていた食べ物のソースが付いてしまった。染みになってしまうからと、それをマスターがハンカチで拭いてくれたそうだ。ラップはハンカチを洗って返すからと預かり、染みが全て落ちるまで洗濯をし、綺麗にアイロンがけをしていつでも返せる状態にして机に置いていた。が、事情を知らない二人に馬鹿みたいな悪戯をされ、ご覧の有様となってしまったのである。
ニコラとノエルは鏡に映った真っ青な自分を見るように顔を向かい合わせた。
「どうしよう、ノエル……」
「どうしよう、ニコラ……」
互いに尋ねるが、答えは出なかった。大切な人の私物を汚してしまったショックは二人に罪意識を抱かせた。罪の意識が惑いを助長し、思考を鈍らせる。
「……マスター怒るかな?」
「怒りはしませんよ、きっと」
不安そうに呟くノエルに、ラップが言った。
「マスターはお優しい方ですから。ですが、悲しむでしょうね」
何故悲しむのか。その理由は言わず、ラップはハンカチを畳んでニコラに握らせた。
ただの布一枚。けれど手に掛かる重さはニコラには石よりも、銃よりも重く感じられた。
「ねえラップ、どうすればいい?」
尋ねるが彼は答えなかった。自分で考えろと言わんばかりに黙ったまま、二人を置いて部屋から出て行った。置き去りにされた二人はブーツの音が遠ざかるのを呆然と聞くことしか出来なかった。
「マスターに謝らないと」
「うん。でも、これ……」
すっかりインクが染み込んでしまったハンカチを見つめ、どうするべきか考える。落ちにくいインクで書かれているので、今から洗ったところで元通りにすることは出来ない。
「そうだ!」
「そうだ!」
そっくりな二つの声が重なった。
・・・
汚れと臭いがこびり付きそうな下水道を通って辿り着いたのは基地近くの街。
世界帝軍兵士の監視が厳しいせいか決して活気に溢れてるとは言えないが、最低限の営みは保証されているようで、店が建ち並ぶ通りには人の足が多くあった。
ニコラとノエルは世界帝軍に目を付けられないようごく自然に、お使いを頼まれた子供を装って目的の場所を探した。
街に来たのは初めてではない。ナポレオンやマスターと何度か来たことがある。だから街の構造はわかっているし、メインストリートが広くないことも知っていた。
だが
「店はどこにあるんだろう」
「見付からないね」
二人は目的地を探せずにいた。
それもそのはずで、二人はそもそも目的地がどこにあるのか知らなかった。知っているのはナポレオン達と一緒に行ったレストランや洋服店、書店、日用品、食料が売っている店だけである。
一軒一軒窓越しに中を覗き、二人は目的の店を探した。美味しそうな匂いを漂わせる菓子店の前で足を止めそうになるが、今は駄目だと我慢して店探しに集中する。
「あれ? ニコラとノエルじゃん」
突然名を呼ばれ、二人は警戒しつつ振り返った。
「……げっ!」
「『げっ!』って、嫌な反応するなお前ら」
菓子店から出てきたシャルルヴィルが少し不愉快そうに言った。
こんなところで何をしているのか。それは聞かなくても両手いっぱいの荷物を見れば一目瞭然だった。彼は今日、買い出し当番なのだ。
「二人だけ? ナポレオンさん達は?」
「陛下はいない。ぼくたちだけ」
「え、そうなの? 大丈夫なのお前らだけで」
「馬鹿にするな。別に大人がいなくても平気だし」
ニコラはふんと鼻を鳴らした。ノエルは同意するようにこくりと頷いた。
「じゃあ、ぼくたち忙しいから」
「行こうニコラ」
二人はシャルルヴィルに構っている暇などない、とでも言うかのように背を向けた。
「待った待った。二人ともどこ行くの?」
シャルルヴィルは慌てて二人を追い越して道を遮り、尋ねた。
「どこだっていいじゃん。お前には関係ないし」
「関係あるとかないとかじゃなくてさ、俺も付いて行くから」
「……はぁ? なんで?」
「だって二人だけじゃ心配だし」
「なんでお前に心配されなくちゃいけないんだ」
ニコラはシャルルヴィルを思い切り押し退けた。
確かに二人は他の貴銃士に比べたら子供だ。だがそれでも貴銃士である。戦う術も知識も持っている。子供だからという理由だけで心配される謂われはない。
「ほら、二人に何かあったらナポレオンさんが大騒ぎするだろうし、マスターも悲しむだろ?」
「それは——」
「二人の邪魔はしない。付いて行くだけ。それならいいでしょ?」
ニコラとノエルは顔を見合わせた。出来るだけハンカチの件は他の者には知られたくないので彼を同行させたくはなかった。
けれど自分達に何かあったら——それを考えると断るに断れない。大好きなナポレオンやマスターを悲しませるようなことだけはしたくない。
「わかった……じゃあ、付いて来るだけなら」
「あと、ぼくらが街にいたこと誰にも言うなよ」
「はいはい」
いまいち信用出来ないにやけ顔と返事だったが、二人は自分達の安全確保のため、仕方なくシャルルヴィルの同行を許した。
「で、どこに行くの?」
「……ハンカチ屋」
「ハンカチ? 自分達の?」
「違う」
「ナポレオンさんへのプレゼント?」
「……違う」
連続不正解。そのままハズレていろと二人は思った。
「あ、わかった。さてはラップさんのだと思って別の人のハンカチに悪戯しちゃったんでしょ」
笑い声混じりに冗談っぽく彼が言った。
ずばりと正解を言われた二人は強く彼を睨んだ。
「あー……図星だった?」
二人は答えず、シャルルヴィルから目を逸らした。
「もしかしてハンカチの持ち主はマスター?」
「っ!?」
二人はびくりと肩を震わせた。
「やっぱり。わざわざ買いに行くくらいだし、そうだと思った」
言うと、シャルルヴィルは軽い足取りで二人を追い抜き
「付いて来なよ。いいお店教えてあげる」
誘導するように前を歩き始めた。
知っているなら案内させようと、ニコラとノエルは黙って後に付いて行った。
案内されたのは女性服がショーウィンドウに飾られている、女性専門のブティックだった。シャルルヴィルは躊躇なく店に入ると、慣れたように女性店員に軽く挨拶をして堂々と店内を歩いた。
客も店員も女性ばかりで、男一人と子供二人の一行は明らかに存在が目立っていたが、三人は気にしなかった。
「じゃーん。ここだよ」
店内の一角で足を止め、シャルルヴィルは商品棚を二人に見せた。
棚に並んでいたのはたくさんのハンカチだった。色、形、素材などが違う様々なハンカチが綺麗に並べられている。
「専門店じゃなくてもハンカチならこういうところで買えるよ。しかもこの店のは女性にすっごく人気なんだよね」
何故そんなことを知っているのか、というのは敢えて聞かず、二人は商品棚に飛びついた。
「いっぱいあるよノエル」
「うん。どれにするか迷うね」
二人は目を輝かせながら棚を見渡した。
「やっぱりマスターには……バラ、かな」
「そうだね。マスターはバラが似合うから」
柄を決めると、二人は早速バラのハンカチを探した。
「これはどうかな?」
「……なんか変な色。こっちは?」
「んー、派手すぎてマスターっぽくない」
などと言いながら二人はハンカチを手に取っては元の場所に戻した。辛口評価に苦笑いしている店員が三人を冷ややかに見ていたが、二人は気に留める様子もなくそれを続けた。
代わりに、シャルルヴィルが愛想笑いを浮かべて店員に何度も頭を下げた。
二人が迷う理由は一つだった。どれを贈ればマスターが喜んでくれるか、である。マスターが一番喜ぶ物を贈りたいという気持ちが大きすぎているせいで、どれも良い物で、悪い物に見えてしまうのだ。
ああでもない、こうでもない。これはいい。でもここが嫌だ。そんなやり取りを飽きずに繰り返している内に時は経ち、売り場を独占して三十分。遂に黙っていられなくなりシャルルヴィルが口を開いた。
「あのさぁ二人とも。早く決めてくれない? 俺そろそろ帰りたいんだけど」
「じゃあ帰れよ」
「お前がいなくたってぼくたち平気だから」
可愛げのない返事に、シャルルヴィルは溜息を吐いた。
「あっそ。じゃあ俺帰るよ?」
「だから帰れよ」
「いられても邪魔だし」
二人は立ち去ろうとするシャルルヴィルを見ようともしなかった。意識は完全にハンカチにだけ向けられている。
「はぁ……心配だけど先に帰ってるからね。あと」
少しずつ離れながらシャルルヴィルは言葉を続けた。
「これは独り言だけど、マスターは二人がくれた物なら何でも喜んでくれると思うなぁ。大事なのは物の善し悪しじゃなくて〈気持ち〉だからね」
わざと聞こえるように独り言を残して、彼は店から出て行った。
彼の独り言は二人の耳にしっかり入っていた。
「気持ち……」
「ぼくたちの気持ち……」
二人は顔を見合わせた。
マスターに伝えたいのは『ごめんなさい』という気持ちと、『大好き』という気持ち。
そして探しているのは、それを伝えるのに相応しいプレゼントだ。綺麗なだけ。可愛いだけ。品があるだけ。それだけでは駄目なのだ。
では、相応しいプレゼントとは何なのか。二人は一旦ハンカチ探しを止めて考えた。
「マスター、よく他の貴銃士達からプレゼント貰ってるよね」
「うん。貰ってる」
「花が多いよね」
「そうだね。貰った花を衛生室によく飾ってる」
「他には……食べ物が多いかも」
「マスターは甘いものが好きだからみんな買ってくるよね」
「あとはタオルとか、ネックレスとか……」
「いつも身に付けられる物が多いかも」
「身に付けられる……」
「いつも持ってる……」
他の貴銃士達がマスターに贈っている物をヒントに考えていると
「あ!」
「……わかった!」
二人はひらめいて再びハンカチの棚を探った。
「ねえニコラ、これは?」
「わあ! 凄いやノエル。これマスターにぴったりだ」
二人はようやくマスターに合うハンカチを見付けることができ、手を叩いて喜んだ。そしてすぐに心配そうに売り場を見ていた店員のもとにハンカチを持っていった。
プレゼント用の包装をしてもらい、代金を支払うと、二人は急いで店を出ようとした。
ところで
「良いプレゼントは買えた?」
外で待ち構えていたシャルルヴィルに驚き、盛大に尻餅をついた。
・・・
真昼と夕暮れの間。丁度心地良い日差しが窓に差し込む衛生室の椅子に腰掛け、マスターは一人読書に耽っていた。傍らのテーブルには読書のお供にとケインがいれてくれた紅茶が一つ。熱すぎず、でも冷めてもいない香りの良い紅茶を味わいながらページを捲っていく。
作戦に出た貴銃士達が戻ってきていないからだろうか。今日はいつもより少しだけ静かだった。衛生室に訪ねてきた者はいるが、怪我人はユキムラが作った落とし穴に落ちて足を挫いたヒデタダくらいで、あとは時間に空きが出来た貴銃士が他愛のない話をしに来たくらいである。至って穏やかな日であった。
「マスターいる?」
呼ばれ、マスターは捲ろうとしていた紙から指を離した。
「あのねマスター。今、お話ししてもいい?」
半開きのドアから顔だけ覗かせ、ニコラとノエルが尋ねた。
マスターは押し花のしおりを挟んで本を閉じると、おいでと手招いた。
二人は顔を見合わせると、探るように室内を見渡してから中に入った。いつもならそんなことをせず真っ直ぐ来るのだが、今日は少し様子が違う。これは何かあったなと、重い足取りで近付いてくる彼らを見て思った。
マスターは二人を空いているベッドに並んで座らせ、自身も向かい合うようにベッドに腰掛けた。ベッドに座ることに意味はない。堅いテーブルを挟むより話しやすいのではと思っただけである。
ニコラとノエルは話しにくそうに何度も視線を交えていた。話そうと口を開くがすぐに閉じてしまい、言葉が出てこない。
話せないことを無理に聞き出すつもりはない。人は誰しも他者には言えないことがある。話せと命令すれば彼らは従って話してくれるだろうが、それは絶対にしたくない。マスターだからといって強要するのは間違いである。
だからマスターは黙っていた。何も言わず、何も聞かず、二人が話してくれるのを待つことにした。わざわざ衛生室に出向いてきたのだ。待っていればいずれ話してくれるはずだ。
「あのね……ぼくたち……」
最初に話を切り出したのはノエルだった。
「ぼくたち、マスターに謝らなくちゃいけないんだ」
紡ぐようにニコラが言った。
「ぼくたちマスターのハンカチをラップのだと思って悪戯しちゃったんだ」
「綺麗なハンカチだったのに汚しちゃって。だから……」
「ごめんなさい!」
「ごめんなさいマスター」
二人は今にも泣き出しそうな顔を隠すように頭を下げて謝った。
マスターは膝の上で握られている小さな手に触れた。二人の手は微かに震えており、ここに至るまでの不安や恐怖を感じ取ることが出来た。
「よかった」
「えっ?」
「もっと大変なことを抱え込んじゃったのかと思ったけど。そっか、そんなことだったんだね」
マスターは安堵し、小さく笑い声をこぼした。
「……怒らないの?」
「ん? どうして?」
「だってぼくたちいけないことしちゃったのに」
「うん、そうだね」
彼らはハンカチに悪戯をした。それは誰の持ち物であれしてはいけないことだ。けれど——
「二人ともこれが悪いことだって、やっちゃいけないことだってわかってるんだよね?」
「うん……」
「反省もしてるんだよね?」
「うん」
「だったら、わたしが怒る理由はないよ。悪いことだと自覚して、ちゃんと反省してるんだから、ね?」
マスターはキョトンとしてる二人の柔らかい髪を撫でた。
「でも、悲しくない? 悪戯しちゃったこと」
「悲しい?」
「ラップが言ってた。怒りはしないけど悲しむかもって」
「怒られるのはいいんだ。だって悪いことをしたんだから」
「でもね、マスターが悲しい思いをするのはいや……ぼくらのせいでマスターが悲しんだら、ぼくらも悲しいから」
ラップは言葉選びが上手い。慕っている相手が怒るのと悲しむのではどちらが二人へのダメージが大きいのかを計った上で言ったのだ。読み通り彼の警告は堪えたようである。
「うーん……悪いとも思わず、謝りもせず、悪戯したことをずっと内緒にしていたり、嘘を吐かれたりしたら悲しいかな」
「じゃあ……」
「何も心配することはないってこと。だから、ね。そんな顔をしないで笑って」
微笑むと、二人の顔も満開の花のように明るくなった。
「マスター!」
子犬のように二人はマスターの胸に飛び込んだ。小さいとはいえ少年二人分の重みを同時に受け止めることは出来ず、マスターは二人と一緒にベッドに倒れた。古いベッドのスプリングが三人の重みで吃驚するように軋んだ。
マスターは苦笑しつつも愛おしい双子を抱き締めた。強くて、素直で、でも悪戯が好きで時々手に負えなくなる。そんな優しくて可愛い二人の温かさを全身で受け止める。
「そうだノエル、あれ」
「うん」
思い出したように二人はマスターから離れた。
逸る二人に両腕を引っ張られ、マスターも身体を起こした。
「マスター、はい、これ」
ノエルが鞄から取り出した包みを差し出した。可愛らしい包装紙と赤いリボンで飾られている平たい形状の包みである。
「これは?」
「ぼくたちからのプレゼントだよ」
「開けてみて」
促され、マスターはリボンを解いた。キラキラと目を輝かせる二人を気にしながら丁寧に包装紙を剥がしていく。
「これ……」
包まれていたのは白い木綿のハンカチだった。四隅の一カ所にだけ赤い薔薇の刺繍が施されている可愛らしいハンカチである。
「マスターのハンカチを駄目にしちゃったからノエルと二人で買いに行ったんだ」
「いつも使ってもらえる物をプレゼントしようってニコラとっ——」
「わっ! マスター!?」
マスターは二人を抱き寄せ、強く、強く、抱き締めた。
端から見れば何処でも手に入りそうな普通のハンカチだろう。だがこの瞬間からマスターにとって特別なハンカチになった。二人の想いが込められた世界に二つとない物である。街に不慣れな二人がこれを探すのは大変だっただろう。それを思うと、愛おしくて堪らなくなる。
「ありがとう。大切にするね」
「うん!」
ニコラとノエルにいつもの笑顔が戻る。これで彼らの憂いもなくなっただろう。
と、思ったが。
「そうだ。ラップさんにはもう謝った?」
尋ねると、二人の顔に再び影が落ちた。
「まだ……」
「じゃあ謝らないとね」
「うん……でも……」
「きっと許してくれない」
「どうして?」
「今までで一番怒ってた」
「ラップ凄く恐かった……」
彼らの見たラップがどれだけ恐ろしいものだったのかマスターには想像出来なかった。ほぼ日常的に叱られている彼らがここまで恐れるということは、相当のものだったのだろう。
「大丈夫。ラップさんもちゃんと謝れば許してくれるよ」
「本当に?」
「でも……」
「だって、二人が本当は素直な良い子だってラップさんも知ってるから」
「そうかな?」
「そうは思えないけど」
「大丈夫、大丈夫! それでも許してくれなかったらわたしも一緒に謝るから。ね?」
ニコラとノエルは不安そうに顔を見合わせた。
「わかった。マスターがそう言うなら」
「ラップに謝ってくる」
マスターは謝る決心がついた二人の頭を撫でた。
一緒に謝るというのは勿論その気にさせるために言ったでまかせではない。
本来揉め事は当事者同士で片付けた方がいいのだが、何故か貴銃士同士だとそれでは収まらないことが多々ある。そういう時は仲裁に入るか、或いはどちらかに助け船を出すことがある。片方の肩を持つのはマスターとしてやってはいけないことなのだろうが、それが必要な場面もあるのだ。
もしラップが二人を許さなかった時は彼らを庇うつもりである。素直に謝ってくれ、プレゼントまで用意してくれたのだ。それくらいしても文句は言われないだろう。
「じゃあラップを探してくる」
「ありがとう、マスター」
善は急げと言わんばかりに、二人は衛生室から出て行った。
再び一人きりになり室内が静かになる。マスターはハンカチをテーブルに置くと、冷めた紅茶で喉を潤し、読みかけの本を開いた。
・・・
外が紺碧色になっているのに気が付いたのは、カップとティーポットを回収しに来たケインに声をかけられてからだった。物語に没頭している間に夜になっていたようで、窓から見える宿舎にも、ぽつぽつと明かりが点り始めていた。
目を悪くするからと、ケインが衛生室の明かりを灯す。すっかり暗闇に慣れてしまった目に光が入り込み、マスターは反射的に瞼を閉じた。小さく唸ると、くすりとケインが笑った。
「マスター、少しよろしいですか?」
瞬きを繰り返して目に光を馴染ませつつ声の方を見た。
静かにドアを開け、衛生室に入ってきたのはラップだった。
「申し訳ありません、少しお話しが。お時間をいただけますか?」
そう尋ねる彼の視線はマスターではなく隣りにいるケインに向けられていた。
意図を察したケインは空のティーセットを持って衛生室を後にした。すれ違い様にラップと短い会話をしたようだったが、内容はマスターの耳には届かなかった。
マスターは空いている椅子に座るよう彼を促したが、彼はそれを断った。どことなく疲れた表情をしていたので座った方がいいのではともう一度勧めるが、大したことはないと言って尚も座ろうとしない。
自分だけ偉そうに座っていることも出来ず、マスターも起立して彼の話を聞くことにした。
彼らを呼び覚ましたマスターではあるが君主ではない。偉そうに振る舞うのは厳禁である。
「お話しというのは?」
「実は、マスターに謝罪しなければならないことがありまして」
謝罪という単語で、マスターはラップがここへ来た理由を察した。
「ニコラとノエルのことですか?」
言うと、ラップは驚いて眉を上げた。
「ご存知でしたか」
「はい。本人たちから聞きました」
「そう、ですか……」
不意を突かれたように、ラップは少し沈黙した。もしニコラとノエルが悪戯を隠し通すのではと思っているとしたら、彼は二人のことを侮りすぎている。結果的に、彼らはラップが思うような子供ではなかったのだから。
「ラップさん、二人のこと怒らないであげてください。二人ともきちんと反省しているみたいですから」
「ですが」
「わたしが許すと言ったんですからいいんです」
詰め寄ると、ラップは深く溜息を吐いた。
甘すぎるとよく言われる。マスター自身はそのつもりはないのだが、他人の目にはそう映るらしい。
「ろくに貴銃士も叱れない駄目なマスターって、呆れちゃいましたか?」
「いえ、まさか。寧ろあなたがマスターで良かったと心から思っていますよ」
眉間に皺を寄せていたラップの顔が少しだけ綻んだ。
「もしあなたでなかったら……二人を叱りつけるマスターだとしたら、今頃陛下に泣きついていたでしょうからね」
「それは……ないとは言えないですね……」
頭に「マスターに怒られたー」と言ってナポレオンに助けを求める二人の姿が容易に浮かぶ。その後の面倒事も一緒に——そうならなくて良かったと、マスターは胸を撫で下ろした。
「マスター、本当に悪戯のことはよいのですね?」
「ええ、勿論」
「わかりました。マスターがそう仰るのでしたら私も程々で済ましておきます」
「お願いしますね、ラップさん」
〈程々〉という部分が気になったが、ラップが快諾してくれたことに一応安心した。これで大きな問題に発展することはないだろう。
「それと、もう一つお話しが」
仕切り直すように、彼は一度咳払いをした。
そして、平たい包みをマスターに差し出した。
「お返しするはずがあのようなことなってしまいましたので、これはお詫びです」
「お詫びなんて。気を遣っていただかなくても大丈夫ですから」
「いえ、それでは私の気が済みませんので」
「お気持ちだけで十分です」
「……そう、ですか。では、日頃の感謝を込めた贈り物という体で受け取ってください」
両者一歩も譲らなかったが、結局彼の気持ちを無碍に出来ずマスターが折れる形で収まった。特別な日でもないのに一日に二つもプレゼントを貰うのは少々気が引けたが、ありがたく気持ちを頂戴することにした。
受け取った包みの軽さと話の流れから、なんとなく中身は予想が出来た。許可を貰って包みを開けると案の定——
マスターはつい笑い声をこぼした。
「……何か面白いものでも?」
「ごめんなさいっ。ただ、ちょっと」
怪訝そうな彼に二つの物を並べて見せる。右手にはニコラとノエルがくれた木綿のハンカチ。そして左手にはラップから贈られたレースのハンカチ。
「あの双子は、まったく」
ラップは少し口角を緩ませ、呟いた。
「考える事は同じですね」
「そのようです。少々癪ですが」
癪だと口では言うが、穏やかな表情からは一切感じられない。寧ろ嬉しそうだ。
「マスター、私がこのようなことをお願いするのはおかしいですが——」
ラップが真っ直ぐ目を見て告げる。
「ニコラとノエルはこれからもマスターにご迷惑をお掛けすることがあるでしょう。ですが、どうか優しく見守っていただけませんか。二人にとってあなたは、陛下と同じくらい嫌われたくない相手のようですから」
意外な要望、とは思わなかった。彼がそれを頼むことに対してもおかしいとは思わなかった。身内の心配をするのは当たり前のことで、身内の心のよりどころを求めるのも自然なことだったからだ。
「勿論、そのつもりです」
頼まれるまでもない。貴銃士たちを、大切な彼らを見守るのがマスターの務めだ。たとえ拒絶されたとしても、見捨てるつもりはない。
「ラップさん」
マスターはハンカチで包み込むように、ラップの手を握った。
「わたしはラップさんのこともちゃんと見ていますからね」
見つめた赤い瞳が微かに揺れる。情熱と冷酷が併存した瞳が、今この瞬間だけ少年のように見えた。
無言で見つめ合ったのはほんの数秒。勢いよく開かれたドアの音で否が応でも目を逸らすことになった。
夕食が出来たとユキムラが呼ぶ。静かにドアを開けろとヒデタダが注意するが、ユキムラはいつもの調子で受け流した。説教を始めたヒデタダを少し退かし、イエヤスが邪魔をしたなと言って二人を連れて行った。
「……私たちも行きましょうか」
「そうですね」
マスターは本の隣りに二枚のハンカチを置いて、ラップと共に賑やかな食堂へ向かった。
きっとそこで三人が仲直り出来ることを信じて。